穂高岳・涸沢春合宿

【 題名 】 穂高岳・涸沢春合宿

【 期間 】 2001/5/2(水)深夜〜2001/5/6(日)

【 参加 】 M田/T井い/K山/K野/A木/M川

【 山域 】 穂高連峰

【 山名 】 奥穂高岳(おくほだかだけ/3190m)・北穂高岳(きたほだかだけ/ 3106m)

【 形態 】 涸沢ベース/奥穂高岳往復/北穂高岳往復/北穂高岳〜涸沢岳直下の最低コルから涸沢テン場/スノーボード(M川)

【 地図 】 昭文社・エリアマップ 山と高原地図38 上高地・槍・穂高

【 資料 】日本の雪山登山ルート集(山と渓谷社)

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--------------------[ コースタイム ]----------------------------------

1日目 5月2日(水)雨

夜23:30京都駅出発

 

2日目 5月3日(木)霙のち曇りのち晴

―名神中央道→松本→6:00沢渡(p)7:30→タクシー→8:00上高地9:00→9:50明神10:10→11:00徳沢11:10→12:00横尾12:50→14:00本谷橋14:10→16:20涸沢(泊)就寝21:15

3日目 5月4日(金)晴

起床5:00・アイゼン歩行練習/ビーコン練習(7:00〜9:30)涸沢10:35→13:20白出のコル13:40→14:40奥穂高岳(▲3190)15:15→16:00白出のコル16:50→18:00涸沢・就寝21:15

4日目 5月5日(土)晴

起床4:10涸沢6:45→南稜→9:40北穂高岳(▲3106)10:45→北穂高小屋11:45→13:10最低コル14:20→15:40涸沢・就寝21:00

5日目 5月6日(日)晴

起床3:00涸沢6:00→7:45横尾8:10→8:50徳沢9:00→9:40明神9:55→10:30上高地11:00バス→12:00沢渡(p)→大町→松本→京都20:30自宅21:30

--------------------[ 山行記録 ]--------------------------------------

1〜2日目 5月2日(水)〜3日(木)

朝から雨がじとじと降っている。一日中止まない。出かける日がこんなだと憂鬱だ。食料係りということもあって荷物が多いので、くずは駅までタクシーで行くことにした。京都駅には早めに着いたが、もうすでに熊ちゃんが来ていた。中川一さんが見送ってくれた。11時半に京都駅出発。土岐のインターでM川さんをひろう。私は車中ではぐっすり眠りながら沢渡に到着した。

着いた時はすでに明るくなっていた。雨は霙状態の雪にかわっていた。早速、屋根の付いている駐車場で出発の準備にとり掛かる。タクシーで上高地まで入る。食堂で朝食をとり、涸沢までの長い道のりを出発した。遠くに見える穂高や焼岳には雪が冠ってはいるもののいつもと変わらない上高地であり、歩き慣れた道程である。上高地のこの風景もかつては新鮮な感動をもって向かえてくれていた。しかし今は単なる歩き慣れた道にしか過ぎない。

こんなことを思いながら足を運んでいると、徳沢園の手前で猿の一群に出会った。人慣れしていてシラン顔で草など食べていた。思わずカメラを向けた。いつの間にか晴れ間が見え始めほっとした。横尾まではほとんど雪のない道だ。横尾を過ぎると雪が積もりだした。横尾谷本谷橋に下りると、いつもの橋は雪に埋まっていた。谷も雪の下になってしまっている。

ここからはひたすら谷筋の雪の登りだ。人は多い。だらだらと列は続いている。ここでひと休み。松田さんが本谷橋と勘違いしていたここは、もう少し登った所の本谷沢の出合だった。少しもうけた気分だったが甘かった。人の列は延々と続き豆粒のように小さくなりながらもまだ先の方まで続いている。嫌になってしまう。いつもながら、荷物も重い。20キロぐらいあるのだろう。しかし、足を前に運びさえすればいつかは辿り着く。一歩一歩、前進あるのみ。左右の斜面には雪崩の跡がけっこうある。

登りはほとんど急登だ。いつまでも続き、もう飽きた、うんざりだと思ったころ後ろの女性が「あっ! 小屋が見える」といった。思わず目をこらして上を見た。確かにガスのなかから小屋らしきものが見えた。不思議なものでそのとたんまた歩く意欲らしきものが出始めて来た。ピッチを上げる。

最後の急騰は、息苦しくなるほどにしんどい。テン場への登りだった。嬉しかった。真っ白の中の、色とりどりのテント。写真で見なれた光景だ。まぎれもない涸沢だった。夏とは様変わりしてしまっている、一面の雪の下だ。しかしそのぶん、空に聳える純粋な岩稜としての穂高連峰は神々しくもある。この日はすぐにオニューのテントを設営し潜り込む。いつもながらの夕食の準備。しばらく歓談のうちに眠りに付く。

となりには娘の「八日市山の会」のテントが二張り、ひっそりとしている。月明かりと雪でヘッドランプがいらないほどの明るさだ。因に私は、夜に外でヘッドランプは使わなかった。

3日目 5月4日(金)

朝から快晴。素晴らしい天気だ。真っ青の空と真っ白の雪。そのなかにチラチラと見える黒い岩肌。何と単調でスッキリとした風景なんでしょう。ここに豆粒よりも小さな人がいなかったら、この雄大なスケールも箱庭かなんかと錯覚を起こしてしまいそうだ。

もう、穂高に向かって点が続いている。私たちは前穂高岳北尾根側の斜面、涸沢ヒュッテの裏手でアイゼンの歩行練習とビーコンの練習を行った。雪は2日に降ったのか柔らかい。よく考えたら、雪稜に入ってこんな練習をしたのは私は初めてだ。次にビーコンの練習。要領がわかるまでけっこう難しい。宝探しゲームのようだ。実際に使う時はそんなのんきなことは言っていられないのだろうが…。最初は、けっこう時間が掛かったが回を重ねるごとに要領がわかって来て早くなった。最後は2個埋めてやってみた。一個の方に集中してしまうとまずい。

2時間程で切り上げ、10時半ごろ奥穂高岳に向かう列に加わる。テン場からすぐそこに見える白出しのコルだが、歩き始めると遠い。登りはほんの少し見えているザイテンの左側から登る。途中からザイテンを横切り右手をいく。ちょうどその横切る所で休憩していた所、アズキ沢側の上の方から人が落ちて滑って来た。滑落したようだ。さっとM川さんが飛んで行った。ちょうど私たちの横の辺りで停止した。上に登って滑落場所を見た所、トレースをはずれ雪庇を踏んだようだ。大事には至らなかったものの、油断大敵だ。帰りには、A木ゆみちゃんも滑落してしまった。見事な停止体制を取り自力で止まった。娘のパーティーが登る時にも滑落を見たと言っていたのでたびたびあるのだろう。

白出しのコルで少し休み、ここからスノボードで下るM川さんと別れ、私たちは奥穂高岳に向かった。登り口は夏のまま梯子と鎖で岩が出ていたが次第に雪になっている。右の方に滑落すると大変だ。やはり慎重を要する。一時間ばかりいくと右手に懐かしのジャンダルムが見えた。雪をまだらに冠りながらも勇々しくそこにあった。墨絵のような無彩色はなおいっそう凛として見える。梓川と横尾が下に見え、そこから聳える蝶ヶ岳や常念岳が美しい。しかしジャンダルムの方はガスが流れ視界はあまりよくない。ジャンダルムは見え隠れしていた。ジャンダルムの上に人がいるのも合間に見えた。さすがに頂上は風もあり寒い。30分程周りの風景を楽しみ、元来た道を下山した。

穂高山荘は屋根がちょうど雪の通路と同じ高さになっていて、本来雪の下になっていると思われるのだが、掘り起こされ営業していた。その通路と小屋の間で風を避け、お湯を湧かしココアを入れた。雪を溶かすのに時間がかかったが冷えた体に染み渡った。

4日目 5月5日(土)

昨日に続いて快晴。6時45分北穂高岳に向かう。昨日に続き相変わらず単調な雪の登りである。食傷気味になってきた。雪道の欠点は道が単調であることと目指す所が近くに見えることだ。行けども行けども同じ風景がある。あるのは雪のみ。そして、ひたすら登るのみ。苦行を課せられた僧の心境だ。だんだん愚痴っぽくなる。そんなとき真っ青な空に突然カラフルな気球がポカリと現われた。ちょうど一瞬、心がなごむ。

それもつかの間、またまた単調な登りだ。頂上直下の登りはとくに苦しい、我慢して辿り着く。パッと視界が開ける。三百六十度の大パノラマ。これですべてが帳消しにさせられてしまう。このための苦しみであったことが理解できる。素晴らしい。昨年、一昨年と滝谷を夏登りに来た。一昨年は5日間滞在中ずっと雨に祟られ、近くまでいってツェルトを冠り雨が止むのを待ったが、甲斐なく一本も登られず。昨年も雨でドーム北壁1ピッチのみで敗退。その怨念深き滝谷もよく見える。

槍も遠くながらはっきりと見える。北穂高岳の頂上は山頂を表わす物は何もない、みんな雪の下だ。石ころひとつない。人は多い。どこへ行っても人人…。人だけがカラフルだ。後は、無彩色の世界。黒と白だけ。そして色といえば空の青色、それだけのはず。そして静寂。人が多いということは、それだけ緊張感もなくなる。観光地にがやがや行っているようで味わいも薄れる。その点、岩で自分一人がビレイヤーとして雄大な風景にぽつねんと置かれると、総てが自分のためにだけ存在しているという充実感を味わえる。

けっこう長い間北穂高岳頂上にいたと思う。離れがたい風景だ。北穂高岳小屋で本格ドリップコーヒーを飲む。おいしかった。ここにもたくさんの人がいた。あとで時間を見ると9時40分に北穂高岳について11時45分に涸沢岳方面に向かって出発と記録してあった。2時間ものんびりと過ごしたことになる。北穂高岳を下った所にツェルトが張ってあった。

松田さんが縦走コースを下見にいった。しばらく待っている間に滝谷を覗いてみた。やはり冬はなおいっそう、厳しく立ちはだかっている。アプローチさえ厳しそうだ。松田さんがもどってきた。「どうしはります」という声にK山さんの「おります」が即座に帰ってきた。「岩だけどどうする」というと、A木ゆみちゃんが「いきたい」といったので、K山さん以外は行ってみることにして涸沢岳に向かった。岩の経験どころか、十二本歯アイゼン、ピッケルが初めてのA木ゆみちゃんが行くことになり、少々緊張感がただよった。やはり多少は金比羅辺りで岩に馴染んでおいて欲しかったと思ったのは松田さんも一緒だろう。後ろから足取りをみている方が怖い。しかし、当の本人と熊ちゃんは足取りとは裏腹に楽しそうにしている。意外と怖がらないんだなぁーというのが私の感想である。

状態は岩肌が出ている部分と雪でつまっている部分が交互である。南稜との分岐でほとんどの人が涸沢に下り、涸沢岳に向かう人はいなかったが、途中で二人連れとすれ違った。すれ違いざま向こうから「きょーとのまつだ」と声が掛かり、松田さんが「ぐんま」といった。熊チャンが、「まるで合い言葉みたいやね「やま」「かわ」といっしょや」なんて喜んでいた。その二人連れは滝谷第四尾根を登攀しての帰りだった。南稜の分岐に張ってあったツェルトとトレースはこの二人のものだった。二人のうち一人は名塚秀二さんという群馬の有名な登山家だということだ。それで、松田さんの「ぐんま」の意味が解った。とっさに名前が出なかったらしい。しばらく行ってから、松田さんは名前を思い出した。

岩場にくると松田さんは足の置き場など丁寧に教えている。やはり心配そうだ。自嘲気味に「アイゼン・ピッケルが初めての人をようこんなとこにつれてくるなぁー」と何度もいっていた。1時間半ほどで涸沢岳が目の前に見えた、下はコルになっていて急岩稜の登りが見える。ここからも厳しい。独り青年が大きなザックを背負い、こちらに向かってやってきた。今日中に槍まで縦走するようなことをいっていた。その時すでに1時を過ぎていたから結構厳しいだろう。

松田さんはここでかなり悩んでいた。リーダーとしてこのまま涸沢岳に向かうかこのままコルから下るか、しきりに悩んでいる。結論は無理をせずに降りようということになった。しかし、ここは穂高からの下降ルートに比べて人が降りた形跡もなく、もっと傾斜がきつく思え、私は降りるにしても不安がよぎった。

松田さんの決断で、これでゆっくりできる。ここでお茶にすることになり雪を溶かしはじめた。ここは絶好の見晴らし台だった。天気も良く、やっとのんびりと風景を楽しむゆとりも出てきた。雪が解けるのには相変わらず時間が掛かる。30分ぐらいは掛かったと思う。その間、近くに見える奥穂高岳や北尾根をバックに写真を撮った。このコースは先ほどの青年と群馬の名塚さんたちとしか会わず。奥穂高岳や話に聞いた前穂高岳北尾根の混雑が嘘のようだ。下の方に見えるテントも点以下にしか見えない穂高岳の登山者も人という認識もなく、風景のみが視界に入ってくる。観光地のような、奥穂高岳や北穂高岳に比べてここは別天地のようだ。心から解放されて自然の中に溶け込んで行く。やっぱり、こうでなくっちゃ。雪の中に混じっていた乾燥草入りの温かくて甘いココアに舌鼓をうった。

離れがたい気持ちに打ち勝って最低コルより涸沢寄りに下降を始めた。一歩一歩松田さんに続く。先にルートを作ってもらって安心して降りる。途中、深い穴があいていた。松田さんにクレバスだと説明を受ける。このクレバスなら落ちてもそれ程心配はないだろうなぁーと思いつつもかなり避けてとおる。途中かなり急なところもあり、後ろ向けに降りた。昨日の滑落もあるのでより慎重である。かなり下に降りると傾斜も大分緩くなり、気分的にも楽になった。滑りながら足を進める。

一緒に来たM川さんはスノーボードで白出しのコルから滑っておりたが10分だったそうだ。登るのに2時間40分かかって降りるのにたった10分とは何ともったいないことだと思う反面、スキーやスノーボードでさっそうと降りられたら気持ちいいだろうなぁー、とも思う。下山中もスノーボードを担いで登るパーティーを見かけたが、スキーで滑っている人は見かけなかった。

テント場に着くと、隣の「八日市山の会」のテント前にいた人が中に声を掛けてくれて、テントから娘が出てきた。奥穂高岳から帰っていた。真っ黒に雪焼けしていた。穂高岳から北穂高沢を先に降りて帰っていたK山さんもテントから声を掛けてくれた。紅茶を沸かしてくれていた。A木ゆみちゃんも熊ちゃんも顔が満足げに輝いて見えた気がしたのは、岩稜縦走を少し体験できたせいかな、と思うのは気のせいでしょうか。

いよいよ、最後の夜となった最後の晩さんはワイン付きで豪華だった。食事は毎回豪華だったが、豪華にするほど軽量化には遠くなる。この矛盾を何とか解決したい、と思いつつも食料当番になるとつい食欲に負けてしまう弱い私なんです。今回はカレーと豚汁をぺミカンにした。ぺミカンにすると生よりも重さは二分の一以下になる。それでいて豪華さは保てる。

しかし、松田さんからは露骨な批判はされていないが、ひとこと言いたげであった。行く前は、豪華な食事を期待されて私は食料当番に任命さたと思うのだが。これからの課題として「豪華な食事での軽量化」を追究していきたいと思っている。それぞれ、今回の合宿山行の感想などおしゃべりし最後のひとときを過ごした。

5日目 5月6日(日)

ゴールデンウイーク最終日で帰りの混雑を予想して3時に起きた。順調にテント撤収も終え6時前に涸沢から下山を始めた。

本谷橋まで踏み跡だらけのでこぼこの雪道をいく。穴だらけだと歩きにくい。途中で足の親指が痛くなってきた。本谷橋の少し手前で見ると血豆になっていた。テーピングをしてまた歩き出したが、痛みは増してくる。嫌な予感がする。本谷橋からも横尾谷をいく。途中からは登山道に入ると屏風岩が右手に聳え立つ。足がますます痛む。イゼンはここで外した。

横尾でひと休み。あちこちに出来た水膨れに、テープを巻き付ける。ここからは、さすがの私も寡黙な人に変わってしまった。黙々と俯いて上高地まで必死に歩いたが、明神から徐々に遅れてしまった。

バスで沢渡駐車場までいき、沢渡の近くにある上高地ホテルの温泉にはいった。前に来た時にはその左隣の沢渡温泉に入ったが、そこはお湯がぬるく洗い場にもちょろちょろしかお湯が出なくて二度とごめん、と思っていたが、横にある上高地ホテルはまあまあよかった。このホテルの食堂に入ったがメニューの価格がみんなのお気に召さずコーヒーのみにして、2年前の合宿での報告にあった、酔っ払いおじいちゃんのいる「赤松」という蕎麦屋で昼食を取ることになった。この蕎麦屋は新島々を少しいったところにある、農家と兼業といった店構えだ。入ると噂のおじいちゃんは、厨房で真面目に蕎麦を湯がいていた。注目していたが2年の間に改心したのか噂とは打って変わって、真面目に働く普通のおじいちゃんだった。蕎麦の味はとても美味しい。ざる蕎麦についてくる蕎麦つゆも、ざるを頼んでいない人みんなが十分満足できるほど沢山あったのもうれしい。たぶん今度前を通っても入りたくなるだろう。

これで、思い残すこともなく帰路についた。M川さんとボードを土岐で下ろし、京都に向かった。予想に反して高速はすいていた。行く時と同じく私は曝睡のまま京都に帰ってきた。

今回の収穫は、岩稜縦走コースをいった、A木ゆみちゃんが岩に目覚めたことだ。早速先日の千石岩に参加して頑張って登っていた。これからの活躍に注目。熊ちゃんはお正月に奥穂高岳に登られなかったが今回いけて、おまけの岩稜縦走コース付ととますますの自信に繋がったことでしょう。

そして私は、合宿といえばいつも逃げ腰になってしまうが、今回参加して雪景色の涸沢を初めて見られてとても嬉しかった。昨年の夏に登った前穂高岳の北尾根も、雪を冠った美しい姿が見られた。今度こそは登るから待っててね。

とはいえやっぱり涸沢までの登りはしんどい。そしてあの人人…。これは何とかならないかなぁー。そうだゴールデンウイークをさければいいのだ。