毛勝・サンナビキ東尾根 |
すべてはこの瞬間のためにある。檜の香りに包まれながら、そう思った。檜には、なにか人をうっとりさせる作用があるらしい。僕はそのとき、宇奈月の温泉で体を洗っていた。黒薙川カシ薙深層谷を登った帰りに立ち寄った、あの温泉だ。
コッ、コッ、コッ。
まるで巨大な魔物の毛細血管だ。僕はなんだろう。魔物の体を蝕むウイルスなのか、はたまた魔物にとってはチリのような存在に過ぎないのだろうか。
12月29日の朝、宇奈月に着いた。僕を除く5名はそのまま黒部の懐へ入っていった。僕はひとり車を走らせる。魚津駅でタクシーをつかまえ、一緒に下山予定地である東蔵へ向かった。発電所前に車を止めて、タクシーで魚津駅までもどり、そこから富山地方電鉄に乗り込む。ところが、飛び乗ったその電車は黒部駅どまり。宇奈月行きは30分ほど待たねばならなかった。再び宇奈月に戻ってきたときは、彼らが出発して3時間がたっていた。もう鐘釣駅についただろうか。見えない彼らを全速力で追いかける。
延々と続くトンネル。僕の足音だけがこだまする。コッ、コッ、コッ。それはまるで脈を打っているかのようにこだまする。トンネルが曲がりくねっているためか、それとも素掘りのあのごつごつした表面のせいか、そのこだまは複雑に反響し、だれか後ろからおいかけてくるような錯覚に襲われる。そう思って立ち止まってみると、こだまは消え、静寂があたりをつつみこむ。ここは黒部の山の「中」なのだ。まるで血流が途絶えてしまうかのような、奇妙な不安を覚えた。もう止まらない。そう決心して歩き続ける。灯りのあるところには、コケ類やシダ類が繁茂している。色彩に乏しいトンネルの中で、蛍光灯の妙に白々しい光に照らし出された透明で弱々しい緑。安物の作り物のよう。そう、なんだか遊園地のアトラクションを見ているような、やけに人工的な緑だ。ひなびた温泉の歓楽街。寂れを感じさせまいと空威張りしたけばけばしさがかえって寂しさを沸き起こすあの感覚。一人でトンネルを歩いていると、どうも神経がおかしくなるらしい。僕が黒部を蝕んでいるのか、黒 部が僕を蝕んでいるのか。
みなはいったい何を考えながら歩いていったのだろう。
2時間40分で鐘釣駅に到着。1時間半も待たせてしまった。僕はさすがにおなかがすき、そこで休憩することにし、みなには先に行ってもらった。また一人歩き始める。左手、黒部の河床に鐘釣温泉がみえた。川のほとりに石で囲っただけの素朴な温泉。計画段階では、ここに一泊して、翌日からとりつくということも考えていた。しかし目指す尾根には、860mをすぎると1400mまでジャンボテントを張れそうなところがなかったので、この素敵な案は断念しなければならなかった。素通りするにはあまりに魅力的だったので、ザックからカメラを取り出し、写真に収めた。そこに行く機会がすぐにおとづれるとはつゆしらずに。
もうちょっと行きすぎではないか、そう思ってスノーシェッドから上をのぞいてみたところ、どこからでも取り付けそうな気がしたので取り付くことにした。O坂君ががんがんラッセルしていく。急坂を登りつめたところで僕に交代。そこから鉄塔まで行ってみると、どうも地形がおかしい。よくよく地図をみると、ウド尾根の支尾根に取り付いてしまったようだ。取り付きでしっかり地図をみておくべきだった。一旦下って、トンネルの横をラッセルしてウド谷に出る。実は先発隊は途中ですれ違った関電のひとに、標高860mの鉄塔にいたる道を聞いてくれていた。それによると道は2つあるらしい。とりつきを探ってみるが、深い雪の中なので、道はわからないし、あってもラッセルには変わりない。一番傾斜のゆるそうなコースを選んで尾根に取り付く。O坂君と2人でラッセルして、尾根にでる。後続はすっかり遅れている。しばらく待って、ラッセルを交代してもらおうと思っていたが、全然姿が見えない。あきらめて2人でラッセルしていくことに決めた。鉄塔までは300mちょっとの登りだが、きつい。雪は重く、すぐに固まるのでラッセルしやすいが、如何せん、この急傾斜にくわえて、トンネルをぶっ飛ばしてきた疲れが重なり、体が思うように動かない。鉄塔は見えるのだが、なかなか近づかない。暗くなる前に、明日の分のラッセルをしておいたほうがいいと思い、僕が空身で鉄塔までラッセルする。大坂君は、鉄塔まで来た後、空身で明日のコースのトレースをつけにいった。僕は荷物を取りに下におりる。竹村さんからポールをうけとる。かなりしんどそうだ。一人で整地をすませるが、あの大きなテントを一人でたてるわけにはいかず、後続を待つ。とっさに、周囲が明るくなった。なんだろう、と左右を見渡す。山の端から煌煌とした月がのぼってきたのだ。その月の光に雪の結晶が反応し、舞台の幕開けのように黒部の山並みが鮮やかに浮かび上がった。あまりに美しい光景に、しばらくぼんやりする。
30分ほどで最後尾が到着する。テントのなかはもう別世界だ。さっそくキムチ鍋の支度をする。ビールがないのは玉に瑕だが、600gもある肉とM田さんが仕入れたキムチは食べ応えがあった。こんな贅沢は今宵限りだ。
12月30日。4時起床。6時出発。昨日、O坂君がトレースをつけておいてくれたおかげで、順調に高度を伸ばす。そのトレースが尽きたところから僕がラッセルを交代する。1404mまでずっと急坂がつづく。今回の山行はラッセルが目的のひとつでもあったので、もともと全員で交代していくつもりだった。ところがいざみなにしてもらうと、スピードががっくり落ちてしまう。これでは今日の目標地点である1520mまで上がれない。一度ずつラッセルを「体験」してもらい、その後は僕とO坂君でトレースを伸ばしていった。予想外だったのは、後続のペースがあまりに遅いことである。雪がふかふかなうえ、トップは空身だから、2番目の人は結構沈む。僕がいくらトレースをつけても、ペースはちっとも上がらない。大坂君がトップのときは、できるだけ2番目を歩くように心がけたが、それでもペースがあがらない。歩くより止まっている時間のほうが長かった。雪が舞い、ときおり強風があおる。あまりに先にトレースをつけすぎると、後続が通過するころにはまた雪に埋もれてしまう。これほど後続に気を使いながらラッセルするのは、正直言って気がめげた。昨年、岡田くんと硫黄尾根にいったときには、頭が真っ白になるくらい猛烈な勢いでラッセルをし続けた。ラッセルを終えて荷物をとりにかえり、必死にトレースをおっかけると、岡田君がラッセルを終えて下りてくる。トレースの末端までゆき、荷物を置いてまたラッセルする。休むまもなく、3日間ラッセルし続けた。けれどもトレースがどんどん伸びていくから、ラッセルも気にならなかった。が、今回はいくらがんばってトレースを伸ばしていっても後ろがついてこないからがっくりくる。そもそもこのパーティでここに来たのが間違いだったのだろうか。みなの疲れ具合がピークに達したのを察して、1404mピーク越えて少しいったところで行動を打ち切ることにした。本当はもう少し進みたかったのだが、止むを得ない。
みじめな一晩だった。全身湿っぽい。シュラフも湿っていた。雪は一晩降り続いた。「当番」のM田さんが、夜中に3回ほど雪かきをしてくれたが、こんなことは久々だ。
12月31日。朝、雪はほぼ止んでいた。地形が複雑なところだったので、起床時間を一時間遅らせた。出発には昨日よりもう一時間余計にかかった。2つの原因があった。まず食事の内容。前日は起床して40分後には食事をはじめていたのに、この日は一時間後にようやく食べ始めた。前日はホタテのリゾットで、あらかじめ作っておいたアルファ米を温めればよかったが、この日はアルファ米を一から作らねばならなかった。また前日はくみ上げた水があったのに対して、この日は雪から水を作らねばならなかった。さらに、出発直前にT村さんのわかんが雪に埋もれて見つからないという事件もあった。僕はスノーシューをはいて、ひとしきりラッセルして帰ってきてもまだ出発できなかった。8時出発はあまりに遅すぎた。ペースもあいかわらずあがらない。1520m地点に10時までにつけば、先に進むと言ったが、もう撤退を観念していた。せっかくなので、またみなにラッセルを一通りしてもらった。最後、僕が1520m地点までラッセルしていった。孤独なラッセルだった。9時45分に到着してひきかえすが、本隊はまだほとんど進んでいない。しばらく後ろについて様子を伺うが、一向に進まないので痺れを切らし、先頭に立って歩く。すぐにまた一人になる。ラッセルの終了点に全員が到着したのは10時15分。ここで撤退の決定を伝える。
天気は一時的によくなりつつあった。後立山方面の雲が次第に取れてくる。毛勝主稜線もときおり姿をみせはじめた。気持ちいいところで立ち去りがたい。このまま下山するのももったいないので、ビーコンの講習をすることにした。雪が深いので、整地するのが大変だった。そのあとラッセル訓練。斜面上方にある木まで、ラッセル競争をした。白銀の斜面に6つの線が延びていく。それは白い魔物にとって、皮膚の上でもがく小さな蚤にすぎなかった。魔物はあまりに大きく、深かった。しかし蚤が残した12本の軌跡は、はるか下からも見て取ることができた。それは我々がそこにいた唯一の証であったが、雪が少し降ればすぐに消えてしまう、はかない証でもあった。白い魔物にとって、それは刹那に感じた痒みにすぎなかった。
午後1時に下山を開始する。天気は穏やかで、とても気持ちいい。前夜の泊地まではトレースもあるので快適だった。1404mへの登りはわずかではあるが、苦しいラッセルだ。下る尾根を十分見極めて、下り始める。昨日のトレースはすっかり消えてなくなっている。左へ左へ進路を取りながら、ラッセルを続ける。途中、O坂君に代わってもらおうとしたが、結局一人で下までラッセルすることになった。1150m付近までは順調に下るが、そこで尾根を間違えてしまう。1200mからは真東にいきさえすればよかったのだが、分岐点付近の尾根は急で、下がみえなかった。少し降りたが、尾根が続いていないかもしれないと不安になり、左手にあった顕著な尾根状へ移った。鉄塔が前方右手にみ えたときには、もうずいぶん下ってしまっていた。間違えた尾根は最後が急そうだったが、なんとか行けそうだった。登り返しても、その尾根にはどのみちトレースはないのだ。もう時間がおしている。明るいうちに安全地帯に下りてしまわねばならない。そこからぐんぐんペースをあげてラッセルしていく。700m付近で尾根が不明瞭になった。すこし降りてみるが、懸垂が必要だ。ひきかえしてルンゼにおりることにする。後続が間違って尾根のトレースをたどってはいけないので、長いこと待つ。時間は刻々とすぎていき、気が焦る。ようやくT村さんがあらわれた。後の人にルンゼに下りるよう伝えてもらうようお願いし、ルンゼへ下降する。雪の詰まったそのルンゼは、雪崩れそうで気色悪かったので、すぐまた尾根に戻った。尾根は末端までトレースでき、沢に下り立った。右岸は壁だったので、左岸へうつる。先週につづき、また冬の沢くだりだ。滝があったので、上においやられる。弱点をかいくぐって沢におり、右岸から降りようとするが草つきにのった雪の斜面が恐ろしく、ひきかえして左岸をさらに下ることにした。ここでも後続を待つ。すっかり暗くなって、ようやくヘッドライトが近づいてきた。左岸も草つきにのった雪で悪い。急斜面を転がるように降りて、再度沢を渡る。沢沿いに下ろうかとおもったが、下は滝が続いているような感じだった。暗いのでよくわからない。すこし巻き上がると、なだらかな斜面が黒部川に続いているようだった。助かった。そこからトンネルの入り口まではすぐだった。午後6時、全員が揃った。後から聞いたところでは、みな苦労したようだ。僕は実のところ、みなちゃんと降りてこれるか心配だった。ほっとしたと同時にうれしかった。本当にみんなよくがんばったと思う。ストレスの多かった今回の合宿で始めて達成感を感じた瞬間だった。
トンネルのなかで年を越す。食料・燃料は有り余るほどあった。好きなものを好きなだけ食べた。トンネルの中はテントのような狭い空間とは違って、いくら火を焚いても暖かくならない。最後の晩は反省会をしようと思っていたが、そんな気も起こらず、思い思いの場所に寝床を定めて、久々にリラックスした気分で夜をすごした。
1月1日。7時起床と決めていたが、僕は6時半におきてしまった。外張りとポールを組み合わせて覆いを作り、中で火を焚けば暖かいに違いないとシュラフの中でふと思いつき、思いついたらいてもたってもいられなくなったからだ。このアイデアはうまく作用した。暖かい空間で朝ごはんを食べることができた。昨夜このことを思いついていればよかったのに。食後、反省会をした。僕の反省点はいろいろあったが、大まかに言えば2点。まず道を間違えたこと。同じ道を下る可能性があったのだから、登っているときに尾根の分岐点でしっかり後ろをふりかえって周囲の状況を確認すべきだった。とくにその尾根は分岐点がいまひとつ顕著でなく、下が見通せ なかった。もうひとつは、パーティの力量を見誤っていたこと。今回は16kgから20kg(O坂くんと僕は制限なし)という重量制限を設けたのだが、もっと少なめに設定すべきだった。具体的に言えば14kgから16kgに抑えるべきだった。当初は1gでもおおく持ってきていたら、出発前に荷物を抜いてしまおうと、体重計までもっていたのだが、東蔵までまわらねばならないと焦っていたために、結局体重計の出番はなかった。あとで持った感じでは制限を越えていると思われる人がいた。各人それぞれ反省点を述べたが、敗退の最大の原因はやはり体力不足であろう。2日目に1520mまで行けていれば、上まで行けただろう。が、あのスピードではどうしようもない。ただ冬の黒部中流域の様子を伺えたのは大きな収穫だった。まだ玄関口をのぞいたに過ぎないが、やはり黒部はいい。いつか黒部から白馬につきあげてみたい。そう、あの長大な尾根を。
この日のメインイベントはなんと言っても鐘釣温泉だ。トンネルから温泉へ向けてラッセルしていったときのあの興奮は忘れがたい。ロケーション、泉温、いずれをとっても最高級だ。体が火照れば黒部の水に体をさらし、寒くなればまた湯船にもどる。夏のなんでもない露天風呂も、冬には超一級の秘湯となる。多くの人に閉ざされ、少なからぬ労力を払わねば到達できない温泉。しかも人工的なところがほとんどなく、ころあいの温度。すばらしいの一言に尽きる。正月早々、こんな素敵な温泉に入れる喜びをかみしめながら至福のひと時をすごす。冬の黒薙温泉もよさそうだ。是非いって見たい。とはいえ代償はやはり大きい。宇奈月までの長いトンネル。疲れた体には苦痛以外の何ものでもなかった。プラブーツが足首に当たって痛い。外を見ると雨。1月2日は大荒れだという。ちょうど下り頃だったのかもしれない。我々の挑戦はまだ始まったばかりである。
2001年度正月合宿報告 |
<当初の予定>
【期日】2001.12/29〜1/2
【日程】
12/28 京都駅→黒部インター→宇奈月駅(仮眠)
12/29 宇奈月駅→鐘釣駅→860m(泊)
12/30 泊地→1520m(泊)
12/31 泊地→サンナビキ山(泊)
1/ 1 泊地→毛勝山(泊)
1/ 2 泊地→大明神山→東蔵
1/ 3 予備日
1/ 4 予備日
*下山ルートは滝倉尾根、大明神尾根、もしくは往路のひきかえし
*入山は尾根の状態によれば「ウド尾根」変更もありうる
<今回の実績>
【期日】2001.12/29〜1/1
【日程】
12/28 京都駅22:15→京都東IC22:33→賤ヶ岳SA23:38-23:46→ハイウェイオアシス1:15→有磯海SA2:17→黒部IC2:37→宇奈月麦酒館3:05(仮眠3:15)
12/29 宇奈月麦酒館(起床6:00)6:37発→黒部渓谷鉄道 宇奈月駅6:50(朝食)-7:40発→鐘釣駅11:30(T嶋Lと合流13:10)-13:20発→小屋平駅14:00?-ワカン装着・出発14:15→ルートを誤り引き返し 正規ルート登り口15:40→860mP 17:39(泊)
12/30 起床4:00 泊地出発5:57→1404mP 13:301520m手前14:40(泊)
12/31 起床5:00 泊地出発7:48→1520mP 10:15 ビーコン、ラッセル練習 下山開始13:30→下山18:08 ルートを誤り、小屋平駅と鐘釣駅の間に下山、黒部渓谷鉄道のトンネル内でNHK紅白歌合戦を聞き、軌道横でのびのびと宿泊
1/ 1 起床6:30 朝食(白味噌のお雑煮)泊地出発7:58→鐘釣駅?→鐘釣温泉発10:30→猫又12:01→宇奈月駅13:29→U田、M田、K山到着14:30→T嶋L車到着15:50 宇奈月駅出発16:10→宇奈月温泉16:30-15:20?→小矢部川SA (食事) 17:45-18:10→尼御前SA19:30-19:39→京都22:20 (T村 近鉄京都22:39→小倉22:48→自宅22:55)
冬山合宿の全般的な感想は前回記した通りです。(HPにも掲載しました。)
今回は装備係を担当したので、個人的見解もありますが、その総括を記してみます。
<装備係として>
1.テントマットを省略して軽量化に貢献できたが、テント内が雪や解けた水が多く出たので、専用のタオルを用意すべきだった。2.スノシューを急遽装備に加えたが、思ったよりルートの高低差が多く、利用する機会がなかった。逆に日本の山にはワカンが何と言っても適している事を痛感した。
3.そのワカンに頼りアイゼンを一度も使わなかったが、下山時はアイゼンとワカンの両方を使う方が急斜面では安全ではなかったかと後で感じた。O坂さんは両方を装着して下ったそうである。
4.テント内の灯りはヘッドランプに頼らず、今回はロウソクを利用すべきだったのではないかと感じた。ヘッドランプの予備電池に不安があったし、下山時、遅くなって暗くなったが使いたくても電池切れの人が出た。冬は電池寿命が落ちる事も考慮して多めに用意する必要がある。安全面ではローソクよりもランタンが適しているかも知れない。
5.ラスヘッドの装備に不足がある事が判り、着火検査が出来ていなくて不安がありラスヘッドを2個(MSR,SIGG)を持ち上げる結果となった。準備や確認はもっと事前に行うべきだった。
6.財布、ライター、バンダナ、寝袋、替え手袋、下着等の防水対策はこまめに行うべきだった。7.12/31朝の出発がかなり遅れたが、私のワカンが雪に埋もれて捜すのに手間取った為である。置き場所を一カ所と定め、例え雪に埋没しても判るようにすべきだった。
個人装備では
1.アウター上下は中綿入りで、重く動きにくいと感じた。中綿なしのアウターが望ましいと感じた。ラッセルには不向きだと思う。2.行動食はアンドーナツと鮭とばを基本にしたが、もう少し一日分位で小分けして手軽に食べられるようにすると良かったと思う。鮭とばに限らず乾燥した物は、スルメ、小魚、燻製など大いに利用すれば軽量化に貢献すると思う。
3.登山靴は革靴で通したが、足を痛めたり、豆が出来たりする事もなく平地部の歩行にも何ら不安はなかった。保温面でも問題はなかったが、プラブーツの方が2重なので保温面では更に有利かと思った。
参加された方はそれぞれ意見をお持ちと思いますが、私の感じたところをまとめてみました。
以上、私からの報告とさせて頂きます。
T村
2001年度黒部サンナビキ山冬合宿報告 |
黒部の山 毛勝山に行くことが決まって以来どうもお尻の置き所が無くて困った。黒部渓谷の深層谷をつめてそれこそ雪がどっさりある冬山に入ることへの抵抗はかなり心理的にはあった。果たして登れるだろうか?この疑問はどうしてもついて回った。危険、危険と心の一方では叫んでいる。しかし、行きたい。行ってみたいという気持ちが蠢く。実は大変迷った。行こうとするまでには・・・・・・。遭難してM田医院を潰すことになったらどうしようか?結構シビアな心境にも何度か陥ったこともあった。それでも手や足は黒部の山を目指していた。動き出した心はどうしても止めようとは云わなかった。やれるところまでやって、その先はリーダーのT嶋さんに任せるより他無かった。私の想像する領域をはるかに越えた登山だった。自分でいくら考えても全く知らない世界である。ある程度は想像できても、それは皆悪い方へ偏ってしまった。
12月16日(日) そんな中、ボッカトレが比良であった。プラブーツを履いて出かけた。2〜3時間の山登りであったがプラブーツの中で足が動き皮が破れた。25Kgのザックを担いで行ったが、T嶋さんより20Kg以下に減らされてしまった。そうでないととても皆に追いつけなかった。確かに7Kg程度の重量差は効果があった。その後、冬合宿のプラン会があった。京大のT嶋さんの助教授室に集まり資料を渡された。数枚にウド尾根から毛勝山に登った昭和山岳会の報告があった。写真が載っていたが2400mの稜線上は歩きやすそうであった。何となくホッとするものがあった。これなら行けるかなという希望の光であった。どうしてトロッコ列車の路線を歩くのかということは分からなかったが、間違いなく我々のコースの近くを登った記録があったことで、大分気 が楽になったのも事実であった。装備や食料計画が話されたが、いつものことなので詳細は省くことにする。只、最後にT嶋さんが私のザックの重さは16Kgまでにと条件を付けられた。装備も食料もそれにある程度合わして欲しいとの事だった。今日のボッカトレの状態を見てのことらしい。私も実は装備は出来るだけ軽くしたかった。願ってもないことだった。体力のない私はこれくらいのハンディが欲しいとまで思った。きつい山行になると思われた。27日の最終プラン会までに約11日間にいかに軽量化するかということと、松田さんより云われたアイゼントレを行わねばならなかった。今回の山行の一番重要な問題点は雪が多く、山が高くないと云うこと。高度500mから2000mまでの雪のフカフカの状態の所を登らねばならない為、雪にまみれ水にまみれになる可能性が高く、濡れ対策をいかに確実にするかということと軽量化につきた。そしてもう一つはアプローチが非常に長く17〜8Kmトロッコ列車の路線を歩かなければならないこと、こ れは以前白山で車止めから別当出合まで約20Kmを歩いてボロボロになって道路を歩いた辛い記憶もあった。プラブーツで地道を歩くのは辛い、とても辛いことだ。特に今履いているアゾロのプラブーツで果たして17〜8Kmを歩けるだろうか?それが疑問だった。自信はまるでなかった。従ってプラブーツが冬山用登山靴を新たに購入する必要が出てきた。念のため家の辺りを道路をストッキングを換えて歩いてみた。ストッキングをなるべく薄くしてみたが、やはりどこか足の指が当たって痛みが出た。雲の上ならともかく、これで長い間地道を歩くことはほとんど不可能と考えられた。それとウェアーの問題、今回は以前春山で成功したゴアダウンは持っていかないことにした。何故なら濡れる可能性があるから、ゴア製でも内から濡れてしまうとダウンがふくらまず保温できないことがある。やはりセーターが必要と思われた。今回はダウンベストとセーターの組み合わせが一番と思われた。実はもう一つ秘策があった。それはウィンドウストッ パー(ゴアテックス)の下着である。1万1千円もする高価なものであるが、ロッジに売っていた。これが今回の山行の切り札となった。これはウールの下着の上に着用しその上からセーター(フリースなど)を着ると一番保温性が高くなるそうだ。非常に優れもので蒸れにくく、又保温性も高かった。実に今回の山行では使い心地は良かった。軽量化でその他にはアイゼン(カンプ)だ。鉄製ではなくクロームモリブデン(クロモリ)製で着けやすく、又靴を選ばないタイプである。又ハーネスも新しいのにした。これも軽くて着けやすかった。どちらも一万円前後のもので出費は辛いところであるが、命と引き替えにはならないと思い購入した。しかし、結果的には両者とも今回の山行では使用しなかった。只、軽量化、コンパクト化には両者とも役だったと思う。残るは山靴であるが、これはO坂の「IBS石井」まで行って、スカルパ、コフラックなどのプラブーツとテクニカ等の合成革靴を比べてみた。結果はテクニカ製の冬季用の革靴に落ち着いた。理由は今回の山行は2000m程度の高い山ではなく、プラブーツは一応アゾロ製があると云うことで、プラブーツより軽く、又足に合って歩きやすいということだ。何しろ20Km近くを歩いてから登らなければならないことを考えてみると結論としてはこれしかなかった。只もう少し時間があればコフラックのプラブーツを少し修正すれば履けたかも知れなかった。何しろ1万円以上安かったから。テクニカの山靴は見た中では一番高く3万9千円もした。しかし、この際背に腹は代えられなかった。辛い思いをして20Km近くも足に合っていないプラブーツでは歩けないと思った。テクニカの山靴はケブラー繊維の入ったシンサレート入りでゴアテックスは使用していない。その代わりにゴム樹脂が前足部をかなり覆っていてスパッツを着用することを考えれば雪山ではそんなに問題はなさそうだ。しかし、あくまで雪山用であり、冬の3000mクラスの山の縦走にはあまり向かないかも知れない。只、雪まみれの今回の山行でも水は入らなかったから、かなり水に対しては強いと思われた。セーターも新しいものを用意した。フリースでウールは選ばなかった。何故なら軽く嵩張らないから、バーゲンセールで3千円だった。ウールのセーターは濡れると重くなり乾くのも時間がかかるが、フリースは濡れても乾きやすいのが特徴だから。これは今回は重宝した。前に書いたウィンドウストッパーとの相性が抜群だった。暖かく、風を通さなかった。しかし、冷え込んだ時はしっかりしたアウターがないと少し辛かった。他は細々したものを揃えた。実はこれに時間が随分かかった。ザックは軽量化を図る意味でミレーの65Lのザックにした。
12月24日(日) 金毘羅山へアイゼントレのために一人で出かけた。カンプの新しいアイゼンとテクニカの靴を履いて登った。途中2,3度危ない思いをしたが、1時間でY懸尾根を登れた。靴もアイゼンも特に問題はなく、これで松田さんよりの指令だったアイゼントレも終わった。後は本番あるのみだ。
12月27日(木) 最終プラン会が喫茶店「ジグザグ」で持たれた。装備分け、食料分けをした。食料は約2Kg、装備は17Kgだった。重い装備の人は4Kgくらいはあったろう。その差は2Kg強である。申し訳ないがこれが私の実力でもある。
12月28日(金) ザックを全て装備して重量を量ったところ17Kgだった。このうちアイゼン、ハーネスを除けば16Kg弱くらいになる。身体をリラックスさせるべく近くのジムに行ってストレッチと水泳を少しして家に帰り、お風呂に入って行く支度が整った。午後9時過ぎに家を離れて、京都駅に向かった。これからが冬合宿の始まりである。午後10時少し前に集合場所である京都駅八条口に行った。もう既にK山さん、T村さん、U田さんが来ていた。U田さんから頼まれていた食料油を入れるケースを渡したら、油を持ってきていないとのこと、そこで京都駅の近鉄名店街に行きつけにしている中華レストランがあるので、そこで食料油を少し分けてもらった。戻ってきたらT嶋さんとT嶋号がもう着いていて、荷物を車に積んでいた。油をU田さんに渡し、ザックや荷物をT嶋号に積み込んで午後10時30分頃に京都駅を出発した。後は運転を交代しながら午前3時過ぎに宇奈月の「道の駅」に着いた。
12月29日(土) そこにテントを張って朝まで寝ることにした。午前6時に目を覚まし、テントをたたんで出発。午前7時頃に宇奈月のトロッコ列車の駅に着いた。そこで皆のザックを降ろすとT嶋さんは下山予定地にT嶋号を置きに出かけた。残った我々5名は取り敢えず先に出発して16km先の鐘釣駅へ向かうことにした。トロッコ列車の始発駅「宇奈月」を出て線路沿いに雪の上を歩いた。しばらく行くと橋に出た。橋の端は人が歩けるようになっていて、雪もかぶっていない。さすが関電だけのことはあると変に感心しながら、橋を渡った。後は電車のトンネルの中と雪のかぶった線路の傍に側道用のトンネルがあり(これは以前の関電の旧トロッコ列車の線路の後であることが後で分かった)その側道を利用して歩けるので、平地を歩くように16Km先の鐘釣駅までただただ歩くだけである。私を除く他の4名は脚が速くスタスタと行くが 、私はとても付いていけない。あっという間に差が出来た。兎に角ビスターリ、ビスターリで歩くしかなかった。狭いトンネルの中を電灯がポツンと点いているのを目標に進んで、又次の電灯を目標に進むといった事の繰り返しをしながら、ひたすら歩いた。そしてついに鐘釣駅に着いた。午前12時40分だった。約4時間懸かったことになる。平均時速4Km/hで歩いたことになる。そして、待つこと1時間20分、午後2時なってT嶋さんが現れた。途中3名の登山パーティーに会っただけだった。ここから小屋平駅を目指して進んだ。約2Km行ったところで午後2時30分頃に目指す地点に着いた。ここでワカンを着けて、まず580mの鉄塔を目指して登った。線路のトンネルの切れ目から登り始めたが斜面はかなり急でとても辛かった。私は付いていくのに必死であった。暫く登ると皆が止まっていた。どうも尾根が違っているようだ。ウド尾根にとりついたらしい。もう一度線路まで降りてから、ウド谷を越えて隣の尾根に取り付いた。皆はどんどん先に 行くが私は全然スピードが出なかった。とても追いつけず、距離が開いた。朝からの強行軍で身体が云うことを聞いてくれなかった。いつも出だしはこうなるので覚悟はしていたがやはりとても辛い。兎にも角にも必死で登って鉄塔に着いた時には午後5時45分だった。辺りは暗くなっており、既に到着していたメンバーはテント張りを始めていたが、私は動けず誠に申し訳なかった。テントが出来上がる頃にやっと身体を動かすことが出来るようになった。辺りはもう真っ暗になっていたが、空は晴れ渡り、満月が黒部の山陰から少し顔を出して辺りをくっきりと照らし出していた。とても神秘的できれいだった。星もきれいに輝き何とも言えず素晴らしい景色だった。外は寒くワカンを外しテントの中に入った。中ではK山さんが雪を外へ出そうとしていたが、雪は結構ザックや衣服について入ってしまい、出しても出しても雪が減らなかったので途中であきらめ、靴のままテントの中に入り、ザックをお尻の下にひいて座った。やがて全員がテントの中に収まり、MSRに火が付けられ、お湯が沸く頃になって少し落ち着いた。最初のメニューはキムチチゲである。私が運びあげた食料である。これで2Kg減ることになる。まず紅茶を飲み、お湯を沸かし、アルファ米に入れて、さてキムチチゲを用意する。キムチは1/2玉持ってきたが。これを適当に切り分け、又豚肉も入れた。グツグツと鍋が煮えてきた。テントの中が美味しい臭いで充満した。具としてはキムチと豚肉しかないがヨダレが出そうになった。やがてアルファ米も出来上がって、食事が始まった。キムチチゲはスッパ辛くでもとても美味しくてあっという間に食が進んだ。又生キムチも冷たく美味しかった。私は山では食欲はあまり湧かない方であるが、今日は特別だった。ご飯もお代わりした。お腹が満腹になった。後は寝るだけ、午後9時過ぎには就寝となった。シュラフに潜り込んで、身体がポカポカしてきた。トイレに行った時、空は晴れ渡り明日から天候が崩れる感じはしなかったが、天気予報はあまり良くなかった。
12月30日(日) 午前4時に起床した。起きてシュラフをたたみ、朝ご飯を食べた。U田さんのスペシャルメニューであった。しかし、残念ながら体中が痛く、食欲が湧かなかった。これから先が思いやられた。既に天候は悪化し、雪が降っていた。そんな中テントをたたみ、午前6時暗がりの中をヘッドランプを点けて出発となった。私は動きが鈍く、ゆっくりとしか登れなかった。皆はさっさと登り始めた。しかし、しばらく行くとみんなが止まっていた。雪が深くラッセルがかなり大変な様だ。先頭を代わる代わる交代しながら、ゆっくりと登る。先頭はザックを置いて空身で登りラッセルをする。疲れたら次が先頭になり先頭だった人は最後尾に回りザックを担ぐ。これを繰り返して進んでいく。私も1〜2度やったが直ぐに疲れてしまう。T嶋さんやO坂さんは元気であっという間に距離を稼いでしまう。セカンドはゆっくり進む。実際思ったように進めない、身体が重いため雪の中に沈んでしまうからだ。斜面も急で雪は段々に深くなり膝までだったのが腰に、腰までだったのが胸く らいまでになっていくにつれ、進むスピードが格段に落ちる様になった。地図で1420mの地点に着いた時は、午後1時が過ぎようかという時間になっていた。その地点からは比較的なだらかな斜面に変わったが、今度は雪が深くなった。T嶋さんが雪のへこみに落ち込んだが2m位あったそうだ。そんなへこみがところどころに出てきて前進を阻んだ。特に木の周りはそれが強く踏み抜くと人の背より高いところが出てくる。又積もったばかりの新雪でフカフカの状態でもあった。従って斜度は減ったものの前進は困難を極めた。ワカンはほとんど役に立たず、スキーかスノーシューがあればもっとお楽に行けるだろうと思われた。結局目標とする1520mまでは達せず、1470m位の窪地にテントを張ることになった。午後2時30分の頃である。まず雪面を踏み固めテントを張った。T嶋さんやO坂さんは比較的楽そうであったが、冬山が始めてのT村さんやU田さん、体力のない私、今回最高齢のK山さんあたりはバテバテであった。しかも、天候は荒れて時に突風が吹き、雪は止まず気温もかなり下がって、手袋のアウターが直ぐに凍り付いた。指を動かすとバリバリ音がした。そしてテントを張って中に 潜り込む。まだ辺りは明るくテントの中はMSRがゴーゴーと燃えて暖かだった。ガスも使って湯を沸かし、少しくつろげた。今日の料理当番とテントの雪下ろしは私とT村さんが係であった。アルファ米にお湯を入れ、紅茶を作った。夕食のメニューである麻婆春雨を作る。味噌汁も作って食べたが、私は口の中に流し込んだという状態だった。食欲は湧かず、無理に口の中に入れると吐き気がした。いつもの事ながらとても辛い。そう言えば登る途中行動食のスルメを無理に口に入れ雪を混ぜて飲みこんできたのが災いしたのか?のどはカラカラで水分はいくらでも飲めたが、固形物は身体が全然受け付けなかった。T嶋さんやO坂さんの食欲は本当に凄かった。身体が求めるのかも知れない。太っている私にはむしろ拷問に近いものがあった。只、いつも合宿の時は私はこうなるので、こういうものだと割り切っていた。今日は午後8時頃に就眠となったが、寝る前にテント周りの雪かきを行った。4時間くらいの間に結構雪が積もっていた。雪は新雪のためスコップで軽く掬って辺りにまき散らした。しかし、どんどん雪 が降り積もり又4時間くらいで雪かきが必要だろうと思われた。次は午前0時だ。シュラフに潜り込んで腕時計のアラームをセットして寝た。しかし、なかなか寝付けない、いつの間にか午前0時になった。雪かきにテントを出た。外は雪がしんしんと降っていた。雪は予想通りでテントを埋めていた。雪かきをしてテントに入った。O坂さんが昨日の午後4時の天気予報から天気図を作成してくれたので、それによると日本海の低気圧は北海道へ逃げてしまい、冬型の気圧配置となっていた。今日は昨日よりは良さそうであった。今朝の起床は午前5時という事でいつの間にか眠っていた。
12月31日(月)午前5時に起床。シュラフをたたもうとしたが、シュラフを入れていた袋が見あたらなかった。朝食の用意もしなくてはいけないし、テント周りの雪かきもしなくてはいけない。慌てた。しかし、シュラフ袋は見つからなかった。しかたがなく、まずテントの雪かきをして中に入り、取り敢えずそこにあったビニール袋にシュラフカバーを付けたままシュラフを入れた。朝食はめざしとご飯とふりかけと味噌汁だった。やはり食欲は湧かなかったが一応味噌汁とご飯で何とか食べられた。昨夜よりはましだった。雪は降っていたが昨日より遙かにマシだった。重い身体にむち打つようにザックを整えてテントから出た。T村さんがワカンがないと探していた。昨日テント前に集めたはずだったが、雪が乗って分からなくなったらしい。T嶋さんがスノーシューで道を探索に出かけた。その間、T村さんのワカン探しが続いた。漸く見つけ出した時にT嶋さんが戻ってきた。全員が一列となり出発した。出発時間は予定の午前7時を大きく越え午前8時頃か?出発して間もなく、片 山さんが雪の穴に落ちた。兎に角1520m地点まで行くことにした。しかし雪は深くなかなか前進しない。やっと1520m地点に到達した時にはもう午前10時になっていた。T嶋さんが言った。「今回はここまでにしましょう」たった100m登るのに2時間かかったのだから云われてもしかたがなかった。しかし、辺りはいつの間にか晴れ、周りは素晴らしい雪の稜線が見渡せた。その場所は平らな窪地でビーコンとラッセルの練習をすることになった。ビーコンはT嶋さんを除くほとんどの人が始めて扱う。T嶋さんより手ほどきを受けて、ビーコンを埋めてそれを探す。U田さんやO坂さんK山さんと次々にビーコンを見つけたがT村さんと私が上手く見つけることが出来なかった。私の方は半分以上やる気を無くしていた。探れど探れどどこへ行ったらいいのやら、只やり方は分かったのでそれでよいと思っていたが、T村さんはかなり熱心だった。その差が最後で出て私がビリになった。次はラッセル訓練で斜面の中腹にある場所までヨーイドンで皆が登るが、初めは私が出遅れた。結局順位はT嶋、O坂、U田、T村、M田、K山だった。U田、T村K山さんは途中で抜いた。後半、バテ気味だった がかろうじて抜いてビリから2着目だった。既にT嶋、O坂、U田、T村等は到着して気楽そうに見ていた。しかし、ラッセルは疲れる。下りは私は得意でT嶋
2002年1月1日(火)午前6時30分頃、T嶋さんがやおら立ち上がってテントの外張りにポールを付けて簡易テントを作成した。朝食はその中で取ることにした。食料を残さず食べようと、雑煮は豪勢に一人4個となった。朝はもう元気になっていたので、食欲もあり雑煮は美味しかった。吐き気もなく食べられた。甘い紅茶を飲んで、出発の支度にかかった。支度は結局私が一番ビリになった。出発の前に朝の排便をしたが、ガスばかり出た。それでもお腹は落ち着いた。皆は一足先に鐘釣温泉に向かっていた。私も後を追った。鐘釣温泉に着いた時に、T村さんに会った。これから下の温泉の場所へ下りようとしていた。他の人は先に別ルートから下りている途中だそうだ。私は皆のザックのある所まで行ってから下りることにした。ザックトンネルを抜けた所にある美山荘のそばを通る道に置いてあった。私はザックをトンネルの出口に置いて、タオル一つだけ持って下りた。既に皆鐘釣温泉に入っていた。楽しそうだった。私も温泉に浸かった。湯加減が合っていてとても気持ちが良かった。露天風呂は黒部川に沿った渓谷にあり、景観は満点であった。手足を伸ばしてゆっくりと横になった。アー気持ち良い。時間はあっという間に経っていた。午前10時過ぎに湯から上がった。皆はそれぞれ宇奈月を目指して歩き始めていた。
又、私がビリになっていた。暫く歩いてみると、足の裏が痛くなってきた。お風呂に長い時間入ったため、足裏の皮が柔らかくなっていたので痛みやすかった。途中でK山さんとU田さんに出会ったが、足のまめ対策のテーピングをすることにして又分かれた。孤独な一人旅が続いた。1時間、2時間とたった頃、トンネルのベンチで休んでいるK山さんとU田さんに又出会った。K山さんは足が痛み出して、テーピングをしていた。私はテーピングをしてからは足の痛みはほとんど感じられなくなっていた。宇奈月までは16〜7Kmは歩かねばならないが、これは疲れた身体には結構辛い、K山さんもかなりばてていて、歩くスピードが上がらなかった。U田さんは体力はあるが水不足に結構参っているようだった。いつも水分を充分にして行動してきた彼にとって水の用意の少ない冬合宿には慣れていないようだ。私も水分は欲しいが、所々に湧いている水が結構助けてくれた。午前10時30分に歩き始めて約4時間、午後2時30分頃に宇奈月に着いた。やっと着いたという感じである。雨が午後 0時頃から降り始め次第に強くなっていった。富山登山鉄道の駅の2階のロビーで先着したT村さんとO坂さんに出会った。約1時間前に着いたそうだ。T嶋さんは車を取りにもう出発していた。それから待つこと約2時間、午後4時30分頃にT嶋さんが戻ってきた。一人で大変だったろうが、そんなそぶりも見せず、飄々としている。さすがである。K山さんとはこの宇奈月駅で別れることになった。実家が近くにあり、そちらに向かわれるとのことだった。一人減ったために車に少し余裕が出来た。雨の降る中、荷物をT嶋号に載せて出発した。まず宇奈月温泉に入ることになった。T嶋さんが知っている派手な温泉宿に着いた。入浴料は一人1050円だった。きれいな檜の木の浴槽で気持ちよかった。鐘釣温泉とは又違った趣だった。すっかり暖まって疲れを流した後、黒部の高速道路のインターへ向かった。途中食堂を探したが見つからず、そのまま北陸道に乗った。途中サービスエリアで夕食を食べた。私は汁物しか無理だと思い、ラーメンにした。お正月だったのでティッシュペーパー1箱をサービスでくれた。何か得したような気分となる。後はひたすら京都へ向かった。途中金沢の先の小松 で凄いスコールに出会った。低気圧の為だろうが、雷が鳴り、急に土砂降りの雨となったと思ったら、雹が降ってきた。暫く停車してやり過ごしたが、これが
おわり