京都雪稜クラブ - 若さ溢れるオールラウンドな活動 −京都岳連加入−
メンバー | CL中川は、SL中川ゆ、湯浅、遊部 |
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期日 | 2004年5月1日夜〜5月4日 |
山域 | 岐阜県 槍ヶ岳 |
山行形態 | 残雪期登山 |
ルート | 新穂高温泉〜槍平〜大喰岳西尾根〜槍ヶ岳山荘 を往復 |
あれは3月に入った頃であったか、ゴールデンウィークの春合宿に参加するメンバーを募集するとのアナウンスが、ミーティングでなされた。候補に上がっている行き先は、槍ヶ岳や穂高連峰などの北アルプスと呼ばれる山域であった。その当時、私は、山を登り始めてからまだ半年と経っていなかったので、この企画は、自分とは全く縁のないものであると認識していた。何と言っても、恐れ多いアルプスが相手である。夏山ならばまだしも、ピッケルとアイゼンが必需品の春山に行こうなどとは思ってもみなかったのである。
しかし、皆子山に登った帰りであったと思うが、中ユミさんが、「合宿に行こうよ。」と声をかけて下さった。「初心者であっても大丈夫。入会したばかりの人の参加を想定して計画をたてているから。」とおっしゃって下さったのである。
しかし、そうは言っても、3日間歩きとおすだけの体力が自分にあるのか、天候が荒れると冬山に逆戻りすると言われる春山に入山する能力と資格が自分にあるのか、甚だ疑問であった。それから、しばらくは、行くべきか行かざるべきか、ウジウジと考えていた。しかし、最後は、悩んでいるのが嫌になって、「とにかく、自分の行ける所まで行ってみよう。」と決心し、中ユミさんに参加させていただきたいとの意思をお伝えした。
メンバーが確定したのは、4月9日であった。中川一さんと中ユミさん、遊部さんと私の4人で行くことになった。次の週に、松田さんと5人でプラン会を催し、行程や係を決定した。初心者2人がいることを考慮してもらい、もっとも安全なルートをとることになった。新穂高温泉から槍平に入った後、大喰岳西尾根を経て槍ヶ岳の頂上を目指すコースである。地図を見ながら、3週間後には、このコースを歩いているのかと思うと、なんだか夢のような妙な気分であった。担当する係は、食料係である。中ユミさんと分担して用意することになった。
それからの3週間は、槍ヶ岳に向けて、バタバタとしていた。初任給をはたいて、手袋や55~65リットルのザックを買いに走ったり、片山さんからはアイゼンを、上田さんからはピッケルやマット、シュラフカバーをお借りしたり、金毘羅でのアイゼントレーニングに参加したりしていた。また、毎日、寝る前にスクワットをして、膝の上の筋肉が育つよう努めていた。この間、リーダーである中川一さんから、多くの教えと励ましを頂いた。教えを全て実行できたわけではないが、山で機嫌よく過ごすために、数日前から、普段以上に水分を摂取するよう心がけていた。思い返すに、ゴールデンウィークまでの3週間は、職場の研修そこのけで、初のアルプス山行に向けて、時には不安と緊張で胸が一杯になりながらも、大半はワクワクしながら心と体の準備をしていたように思う。
とうとう、5月1日(土)である。午後9時に京都駅八条口に集合し、すぐに出発した。遊部さんと中ユミさんが交互に運転してくださった。山に向かう人々は、既に、前日の夜に出発されたからか、東名高速はガラガラであった。一宮ICを下りた後は、さらに一層、対向車に遭遇しない高速道路(名称は失念した。)を通って、目的地に近づいていく。車が少ないのが幸いであったと思うが、1車線の高速道路に乗ったのは初めてであったので、後ろの座席に座らせてもらっていても、多少の恐怖を味わった。
日が変わって、5月2日の午前2時ごろに、新穂高温泉の無料駐車場に到着。周囲には、たくさんの車が停まっており、時間も遅かったので、外にテントを張ることはせずに、車の中で、しばしの仮眠をとることになった。その日の行動に向けて、短時間でも、ぐっすりと眠りたかったが、「とうとうアルプスに来たのだなあ。」「今は、まだ闇の中で見えないが、高い峰々が、ここを取り巻いているのだろうなあ。」と思うと、静かな緊張と興奮が胸に押し寄せ、なかなか寝付けなかった。さらに、さすがに標高が高いだけあって、とても肌寒かった。
午前6時に起床。外に出ると、吐く息も白くなる冷たさであった。澄んだ空気がとても美味しかった。山に囲まれた狭い空は、朝の弱々しい光をうけて、白味をおびた薄い水色をしていた。駐車場の横を流れる蒲田川の川原で、ひとしきり、朝の体操を行った。川の水は、雪解け水であるからか、それとも、川床の石の色によるのか、はたまた、光の加減であるのか、私にはわからなかったが、この冬、オホーツク海で見た流氷と同じ色をしていた。一度見たら忘れられない、神秘的な青なのである。それから、各自で朝食をとった後、食料や共同装備を分割し、ピッケルやビーコン、ゾンデなどの必需品を持ったことを確認して、駐車場を出発した。
この日の行動は、槍平小屋までである。新穂高ロープウェイに乗るらしい多くの人々の横を通り抜けて、右俣林道へと入っていった。トラックも通行できそうな広くて整備された林道が延々と続いていた。ガイドブックにもあるとおり、単調すぎて嫌になりそうであったが、足元が安全であることを幸いに、「あの山は笠ヶ岳であろうか。」「この木は何という木であろうか。」と、移り変わる周囲の景色をのんびり眺めながら歩くことができた。また、中ユミさんによると、穂高平小屋の横で牛が見られるということだったので、「新鮮な牛乳がいただけるのでは・・・。」とひそかに期待していた。しかし、広い放牧地には、1頭の牛も見られなかった。中ユミさんが小屋の人に尋ねられたところ、もう少し暖かくなって、放牧地の草が十分に生えてから、牛を中に入れるということで、今は、違う場所で冬ごもりしているとの話であった。この場所では、残念ながら、牛には出会えなかったが、澄みきった青空のもとで、西穂高岳からジャンダルムを経て奥穂高岳、北穂高岳、そして槍ヶ岳へと連なる峻険な峰々を、はっきりとこの目に焼きつけることができた。これから、あの遠くに見える槍ヶ岳に登るのかと思うと、背筋がシャンと伸びるような気持ちであった。
穂高平小屋を過ぎて、しばらく行くと、日に照らされて水っぽくなった雪が林道を覆い尽くしていた。ジュクジュクの雪の中を歩いていくのは、決して楽しいものではなかったが、もう少しで白出沢に着くということを励みに、黙々と歩いていった。
ようやく、林道歩きも終了し、白出沢出合に到着。沢は涸れていたので、白い大きな岩をつたって、対岸に渡ることができた。ここで、しばしの休憩をとった。中川一さんが振舞ってくださったキウイの効用は素晴らしく、体がスッとした。沢の中程の岩に座って、静寂の中で、所々に雪を残した穂高連峰を眺め、光を反射するかのような周囲の白い岩に目を細めていた十数分の時間は、3日間の行動時間の中で、もっとも穏やかなものであったと思う。穏やか過ぎて、眠たくなるほどであった。
白出沢を過ぎると、ようやく登山道らしい道が現われる。遅ればせながら、「今、まさに、槍ヶ岳を登っているのだなあ。」という実感がわいてくる。始めのうちは、周りの木々を眺めながら歩いていた。しかし、しばらくすると、急な斜面をトラバースしていかなければならなくなり、自分の足元を確認するのに必死で、景色を眺める余裕などなくなった。自分が足を置けるのは、前を行った人々が踏み固めた2足分の幅だけであり、左手の遥か下方を流れる蒲田川の源流に目を移すと、引き込まれそうな恐怖を感じた。「ここで滑落したら大変だ。」と思い、神経を張りつめて、一歩ずつ慎重に歩いていった。お天気は最高で、太陽が燦々と降り注いでいた。斜面の雪がキラキラと輝いて美しかった。しかし、そう思えたのも始めだけで、一面を埋め尽くす雪は反射鏡のようで、次第に、目が痛くて開けられなくなってきた。ここで、買ったばかりのサングラスを着用。自然の色を見られなくなるのは残念であったが、これがなくては、涙を流しながら歩くはめになっていただろう。雪面がこれほど眩しいものであるとは、正直、思ってもいなかった。
しばらくして、滝谷出合に到着。藤木レリーフの下にある水場で長い休憩をとった。中ユミさんは、お昼寝をしていらっしゃった。私は、意外と元気だったので、辺りをキョロキョロと見回していた。石の上に、雪が笠のように積もっているのが、丸みを帯びてかわいらしかった。脇を、山スキーヤーが軽やかに下りていかれた。見ていると、気持ちよさそうで羨ましかったが、ゲレンデスキーすら、生まれてから2回しかしたことのない私には、夢のまた夢だなあと思った。
ゆっくり休憩した後、テントを張る槍平小屋に向けて出発した。「今日の行動もあと少しだ。」と思って歩き出したが、予想外に、ここがきつかった。歩いても歩いても、広い斜面がどこまでも続いているようであった。「とにかく、あのダケカンバの木まで行こう。」と決めて歩を進め、休憩し、また次の目標まで歩くということの繰り返しであった。うつむいてヒーヒー言いながら登っている間中、背後には、日に照らされて橙色がかった穂高連峰が、私たちを見守るように聳えていた。中川一さんの声に後ろを振り返って、初めて、この雄大と言うしかない山の姿を見たときの感動は忘れられない。むしろ黒に近い紺色の山肌と白い雪が、残照をうけて燃え立っている景色は、まるで絵画のようであった。休憩の度に、後ろを振り返って、美しさに溜息をつきながら、徐々に高度を上げていった。亀のような歩みを繰り返して、ようやく、木立の向こうに、色とりどりのテントが見えたときは嬉しかった。皆が無事に辿り着けたことに感謝した。
それから、景色の良い方向に入り口を向けて、テントを張った。避難小屋に泊まるという選択肢もあったが、テント泊が初めての私と遊部さんの勉強のためにも、テントを張ることにしたのである。そして、テントの横に、四角いテーブルを作った後、雪を溶かして水を作り始めた。中川一さんと中ユミさんが、水の正しい作り方について議論していらっしゃったところ、隣のテントの人が、すーっと近づいてきて、「あちらの木の下に、水場がありますよ。」と教えてくださった。なんとまあ・・・。早くに事実が判明してよかった。(もちろん、水作りの方法を見られて勉強になったとも言えるので、私にとっては、無駄な時間ではなかったのだが。)その後、4人で、練乳かき氷を食べた。中ユミさんの「かき氷が食べたい!」という一声を聞いて、非常食セットの中に、コンデンスミルクがあったことを思い出し、目的外使用をしたわけである。甘くて美味しかったが、次第に寒くなり、せっかく作ったテーブルを放置して、テントの中に逃げ込むことになった。その日は、中ユミさんの用意してくださった、美味しいうなぎ入りちらし寿司を食べて、早めに就寝した。
初のテント泊なので、「寒くないだろうか。」「ぐっすり眠れるだろうか。」と心配していたが、テントの中は予想外に暖かく、安心して眠ることができた。
朝、目が覚めると、残念ながら、外は大雨であった。横になったまま、テントを揺さぶる風雨の音に耳を傾けて、「肝心の日に、ひどい天気になったものだなあ。」と思っていた。起床予定時刻になったので、4人ともモソモソとシュラフから抜け出し、行動を開始した。ただし、「この天候の中、早立ちするのもなあ。」というわけで、外の様子を観察しながら、ゆっくりと砂糖たっぷりの紅茶を飲み、朝食をとった。しばらくすると、雨も小雨になってきたので、出発することにした。中川一さんに、一人ずつ、ビーコンのテストをしていただいた後、気分を盛り上げて、いざ出発。無事に、このテントに戻ってこられるようにとお祈りした。
辺りは、一面、灰色の世界であった。前日、テントの前に聳えていた南岳から北穂高岳へ連なる峰々は、霧に深く閉ざされてしまっていた。足を運びながら、目を前方遥かに移しても、雪の斜面と空との境界が全くわからなかった。寒々しい景色の中で、唯一、目を楽しませてくれたのが、いかにも風雪に耐えてきたという様相を呈しているダケカンバであった。しばらくは、なだらかな斜面を登っていった。そろそろ、大喰岳西尾根にとりつく頃だと思って、皆で、目印となる「宝の木」を探しながら歩いていたが、一向に、そのような木は見当たらなかった。そのうち、次第に傾斜が急になる。「おかしいなあ。」と言いながらも、この深い霧の中で見つけるのは容易ではない。結局、前を行くパーティーが残した足跡をたどって、飛騨沢をつめていくことになった。登るにつれて、さらに一層、霧が濃くなっていった。見えるのは、約5〜6メートル先までであったと思う。突然、上方から人が現われ、ハッとすることが何回かあった。
事前に地図を読んで、覚悟していたとはいえ、この辺りの斜面は、とても急であった。体力の消耗を防ぐためにも、前の人の踏み跡に足を置き、階段を上る気分で、足元を見つめて、黙々と登っていった。「踏み後のない雪面に、何度も爪先を蹴りこんで進んでいくというのは、なんて体力のいることなのだろう。」と思った。しばらく登ると、ある一点を境に、雪質がガラッと変わったのがわかった。とうとう、アイゼンの出番である。風の吹きすさぶ中、かじかむ手で、アイゼンのバンドをしっかりと閉めた。同時に、オーバー手袋と目出帽も取り出した。さすがに、目出帽を全部かぶるのは憚られたので、頭の部分だけを覆った。
もう少しで、飛騨乗越に到着すると思われる頃、ゴツゴツとした岩場に遭遇する。深呼吸をした後、アイゼントレーニングを思い出しながら、慎重に登っていった。岩と岩の間の狭い隙間に生えている草の緑が美しかった。なんとか、
アイゼンをひっかけることもなく、無事に岩場を通過できた時にはホッと息をついた。しかし、安心したのも束の間、急な斜面をトラバースしていかなければならない。『雪山を楽しむ』というビデオで見たとおりに、ピッケルを突きながら、ゆっくりと前に進んでいったが、恐ろしくて、下方に視線を移すことができなかった。ただただ、滑落しないことと、このトラバースが終了することを祈っていた。ようやく、トラバースは終わったが、まだ、試練は続いていた。強風である。凍えるような風が吹き付け、息ができなかった。一人として着用している人を見かけなかったが、この時点で、怪しげな目出帽をすっぽり被った。被ると、気分的にも楽になった。ピッケルを握り締めて、最後のジグザグ道を登っていくと、ようやく、槍ヶ岳山荘が見えた。小屋の前には、カラフルな雨具を着込んだ多くの登山者がいた。話では、小屋の前に、槍ヶ岳の穂先が
屹立しているとのことであったが、霧のために、何も見えなかった。
とにかく、アイゼンとピッケルをはずし、荷物を置いて、小屋の中に入らせてもらった。ストーブがとても有難かった。次から次へと、人が出入りしていた。多くの人は、それから、頂上へ向かわれたが、私たちは、この山荘を最高点として下りることになった。中川一さんが、この天候の中で、濡れた岩場を登っていくのは避けたほうがよいと判断されたからである。もちろん、「ここまで来たからには、頂上に立ちたいなあ。」という気持ちが全くなかったわけではないが、ホッとしたというのが正直な気持ちであった。自分の実力を考えると、この強風の中で、クサリを片手に、急な岩場を登っていけるのか、甚だ疑問であったからだ。ストーブにあたりながら、つらつらと、「今回は頂上に立てなくとも、生きて帰れさえすれば、また来る機会もあるだろう。」と考えていた。そして、ここぞとばかりに行動食を摂取し、小屋の前で記念写真をとった後、下り始めた。
下りは、とても楽しかった。唯一、件の岩場を下る時は緊張したが、その後は、楽しくて仕方なかった。皆子山に行った時に、増田さんから、雪の斜面を下る方法を教えていただいたのだが、その言葉通りに、踵から着地すると、これほど楽に下りられるとは思ってもいなかった。踏み跡のない真っさらな雪の上を、勢いよく下りていった。自然に、顔がにやけてきたほどである。中ユミさんと遊部さんは、途中から、尻滑りをしていらっしゃったが、私は、雪面を下りる感覚に惚れこんでしまい、ひたすら、2足歩行をしていた。また、上りに感じた斜度を思い返すと、下りは、相当の恐怖を感じても仕方がないと思われたが、全く、そのようなこともなかった。ここは、霧のおかげである。相変わらず、周囲は霧に閉ざされていて、それほどの斜度を感じなかったのである。
帰ってきてから、田澤さんに、そのことを報告したところ、「あの場所で恐怖を味わわなかったとは許せない!」と言われたので(もちろん、笑いながらだが。)、あらためて、霧に感謝した次第である。そろそろ、テン場に近づいてきた頃、中川一さんに、雪崩が起きそうにない斜面を確認した後、何度か、トラバースの練習をしてみたが、なかなかうまくいかなかった。足の置き方が悪いのだろうなあと思った。
テン場に到着したのは、まだ、午後1時30分頃であったと思う。槍平の避難小屋には誰もいなかったので、テントをたたんで小屋に移動することにした。ちょうど、雨もあがっていたので、テントの片付けをするのに都合が良かったのである。小屋は、窓が小さくて薄暗かったが、思っていた以上に清潔であった。荷物を運び入れた後、濡れたものを干したり、水を汲みに行ったりして、その後の長い「夜」を快適に過ごす準備を粛々と進めていた。準備も整い、2時30分には、楽しい「夜」が幕開けした。ひたすら飲み、食べ、話し、寝ていたように思う。(飲むと言っても、お酒ではなく、紅茶やコーヒーであるが。)それぞれの行動食だけでは足りず、予備食のラーメンまで食べた後、優雅なお昼寝をした。「山で、これほどゆったりとした時間を過ごせるとは、何て幸せなのだろう。」と思った。日が沈む頃、またもや、しっかりと夕食を食べ、手作りのプリンまで食べた。どう考えても、エネルギーの摂り過ぎであったが、山の上で食べるものは何でも美味しかった。その日も、早めに床についた。夜になっても、小屋の中に入ってくる人はいなかったので、ゆったりと眠ることもできたのだが、結局、隅でかたまって横になった。霊感がないにもかかわらず、「夜中に幽霊が出たらどうしよう」などと、無駄な心配をしていた私にとっては、実に心強かった。広い小屋の中にいながら、一人あたりのスペースは、前日のテントと同じ位であったが、幽霊のことを考えると、全く苦にならなかった。
夜中、小屋を叩きつける大雨の音に起こされた。前日の、テントを揺らす風雨もすごかったが、その日の、薄い屋根を通して聞こえる雨音も相当のものであった。暗闇の中で、浸水する恐れのない小屋にいられることに感謝しつつ、朝になるまでに、この雨がやむことを祈っていた。それから、もう一寝入りして、午前5時頃に起床。雨は降り続いていたが、次第に弱まってきていた。温かい紅茶を飲み、おかゆを食べた後、荷物の整理をして出発する準備をした。その頃には、幸運なことに、雨も止んでおり、最終日の幸先の良いスタートを喜んでいた。小屋の前で、皆、嬉しそうな顔で写真におさまった後、ルンルン気分で出発した。
一昨日、苦労して登ってきた斜面を、早々と下っていった。雨が上がったばかりで、目の前に聳え立っているはずの穂高連峰は、まだ姿を見せてはくれなかった。しかし、目に映る景色は、私を驚かすに十分であった。というのは、上りの時に見た景色と全く異なっていたからだ。左右の斜面を覆っていた雪がすっかりずり落ち、私たちが通っていく谷筋に堆積していたのである。2日間の大雨によるものと思われたが、わずかな間に、これほどまで景色が一変してしまうことに驚いた。谷筋に集結した雪の表面は、波打つような様相をしていた。曇り空の下、茶色がかった雪が続くその景色は、私がそれまで抱いていた「雪景色」のイメージを遥かに超えるものであった。そこにある雪は、「美しい」であるとか、「儚い」であるとか、そういった一切の生半可な形容を拒絶していた。
それを的確に表現することは難しいが、「生きているかのような不気味さ」を感じたことは確かである。また、雨水と雪解け水のどちらであるかはわからなかったが、水が雪の上を、あたかも始めからそこに流れがあったかのように、蛇行しながら勢いよく流れていく様子は圧巻であった。幅は3〜4メートル程あったと思う。歩きながら、自然が作り出す風景の不思議に驚かされてばかりいた。
順調に下って、滝谷出合に到着。勢いよく流れる沢の音を右手に聞きながら、沢の上にアーチ状にかかっていると思われる雪の上を、1人ずつ静かに通過していった。自分の体重の重みで雪が崩れないか、ヒヤヒヤした。無事に沢を渡ってからは、薄暗い樹林帯を下っていった。緑に囲まれながら歩くのは気持ちよかったが、1つ、苦労したことがあった。春になって雪が溶け始めているために、度々、足が雪の中にはまったのである。周囲を眺めてばかりで、足元をしっかり確認していなかったのが問題なのだが、木の根っこ近くに足を置いてははまるということの繰り返しであった。皆、多かれ少なかれ、同じ苦労をされていたが、深く埋まってしまうと、抜け出して態勢を整えるが大変であった。
さて、そろそろ白出沢出合に到着しようという頃。私は、もう少しで登山道歩きが終了することに、安堵の念を抱いていた。しかし、予想外に、核心はここからであった。まずは、白出沢出合に出るまでの1時間強の道迷い。次に、増水した白出沢の渡渉。まさか、最後の最後で、これほど印象深い経験ができるとは思ってもみなかった。
道迷いについてであるが、皆が、道標を見落としたことが原因である。(根本的な原因は、地図を確認しなかったことであるが。)木や草に覆われた5〜6メートルの急斜面を、木の根につかまりながら下りた後、ゴツゴツした岩が続く斜面を下りていったが、到着したところは、目の前を、右から左に水が奔流していく崖であった。「これは、どう考えてもおかしい。」ということになり、皆、しばらく辺りを見回していた。とにかく、現在地がわからなければどうしようもないので、中川一さんと中ユミさんが、地形を確認するために、ザックを置いて元来た道を登っていかれた。私と遊部さんには、「行動食を食べながら、同じ場所で動かずに待っているように。」とおっしゃって下さった。お言葉どおり、エネルギー補給に努め、気持ちを落ち着かせようとしていたが、やはり、お2人の姿が見えなくなると、どうしようもなく不安であった。悪いことに、この頃には、再び、雨が降り出していた。
20分程が過ぎた頃であろうか、(私には、もっと長く感じられた。)お2人が戻ってこられた。「どうも、1つ手前の尾根を間違って下ったらしい。」とのことで、もう1度、登り返すことが決まった。2人は、少しも休憩されることなく、出発となった。「ザックをおろせば、それが休憩。」との中川一さんのお言葉に、なるほどと思った。と同時に、体力がなければ、そのようなことは言えないということも理解した。同じように、その尾根に迷いこんでいた1人の中年男性に、私たちは登り返すと伝えたが、その方は、沢を渡って、隣の尾根に移るとおっしゃった。私には、沢を渡ることは不可能に思われたが、どちらが正解かわからなかったので、お互いの無事を祈りつつ別れた。
「無事に登山道に復帰できるだろうか。」と思いながら、神経を張りつめて、登り返していった。体力的にというよりは、精神的に辛い時間であった。ひとまず、通ったことを覚えている場所まで戻った。その後は、中川一さんが、地形を見ながら少しずつ歩を進め、大丈夫だということがわかると、私たち3人に来るようにと笛で合図して下さった。まるで、親鳥を探し求める雛の気分であった。それを何回か繰り返して、ようやく道標の赤い紐を見つけたときは、心の底からホッとした。安心して、涙が出てきそうであった。皆が無事に「遭難」状態から脱出できたことに感謝した。そして、アクシデントの中、冷静に対応して下さった中川一さんと中ユミさんに、尊敬と感謝の念を抱いた。
しかし、安心したのも束の間、増水した白出沢が私たちを待っていた。一昨日、涸れた沢の中程でお菓子を食べていたことなど夢のようであった。もはや沢ではなく、河であった。30〜40メートルの幅はあったと思う。前を行く人は、岩とストックを頼りに、そのまま渡っていかれたが、私たちはハーネスを装着した。私には、この速い流れの中を、命綱なしに、自分の身ひとつで渡っていくだけの能力と覚悟がなかったのである。前の人が渡っていかれた所は、河の幅も多少は狭くなっており、つかまる岩もたくさんあったので、私たちも、そこを渡ることにした。まず、中川一さんが渡渉された。中ユミさんがザイルを繰り出される様子、中川一さんが岩につかまりながら前に進んでいかれる様子は緊張感あふれるもので、「本当にこのような所を渡れるのだろうか。」と思い、逃げ出したくなった。しかし、次は、私の番である。覚悟を決めて一歩を踏み出そうとしたその時、岩づたいに渡っておられた中年男性がバランスを崩して流されようとしているではないか。一気に辺りの緊張感が高まったが、運良く、中川一さんと中ユミさんが張っていたザイルにつかまり、態勢を整えた後、無事に渡り終えられた。直前に大変なものを見てしまったが、両岸からピンと張られたザイルに安全環付きカラビナをかけて、冷たい河の中に足を踏み入れた。その後は、もう必死であった。とにかく、腰を落として足に力を入れ、流されないように、3点確保を守りながら進んでいった。水の圧力は、想像以上であった。3分の2程の距離を渡り終え、ようやく対岸が視界に入ったと思ったとき、急に水の圧力が強くなった。岩につかまっていた手が離れ、尻餅をついて流されてしまった。ザイルで繋がれていることがわかっていても、かなり動転し、奔流の中で態勢を立て直すのに時間がかかってしまった。やっとの思いで立ち上がり、対岸に辿り着いた時にはフラフラであった。中川一さんの「お疲れさん」というのんびりした声を聞いた時は、本当に安心した。ちなみに、この時、中川一さんからお預かりしていたカメラを水の中に浸けてしまった。すぐに、フィルムを巻こうとしたが、既に動かなくなっていた。その後、靴の中に入った水を出したり、手袋をしぼったりしながら、遊部さんと中ユミさんがこちらに来られるのを待っていた。お2人とも、なんとか無事に到着された。皆、安堵の表情であった。また、気がつくと、道に迷っていた時に出会った男性がおられ、お互いの無事を喜び合った。それにしても、「オロナミンC」の世界であったと、後になって思った。
その後は、長い林道歩きであった。もはや遭難する心配のない所まで下りてこられたことにホッとした。相変わらず雨は降り続いていたが、苦難を乗り越え、一仕事を成し遂げたような満足感が胸一杯に広がり、とても幸せな気分であった。道の脇に可憐に咲いている小さな花を眺め、ゆっくりとお話しながら下りていった。中ユミさんは、とても、お花に詳しかった。名前を知っているだけでも、お花を愛でる楽しさは違うのだろうなあと思った。右手に見える泥水のような蒲田川は、大音響とともに、荒れ狂うように流れていた。これを鉄砲水と言うのだろうと思った。また、何度か、落石の音を聞いた。新穂高温泉に着くまで、土砂降りの雨が止むことはなかった。こうして、1日目は快晴、2日目は霧と強風、3日目は雨という、1日ごとに異なる天気の下で歩いた初アルプス山行は、無事に終了したのであった。
松田さんがおっしゃったように、「山も研修中」の身である私が、春の槍ヶ岳をめざし、とにもかくにも、無事に帰ってこられたのは、ご一緒して下さった3人の方をはじめ、装備や技術の面でサポートして下さった多くの方々のおかげである。貴重な経験をさせてもらったことに、あらためて、感謝したい。
帰りに、中川一さんが、「これだけの経験をすると、きっと自信がつく。」と言って下さった。自信になったかどうかはわからないが、少なくとも、自分に足りないところはよくわかったし、いくつかの目標が生まれたことも確かである。「どのような状況になっても、自分の力で切り抜けていける。」と思えるまでになるには長い時間がかかるだろうが、少しずつでも、自立した登山者になれるように努力したいと思った。そして、再び、槍ヶ岳の頂上をめざしたいと思う。
最後に、中川一さんのカメラについて触れておく。カメラの機能は、その後も回復することはなく、よって、記念すべき合宿の写真が一枚も残っていないという悲惨な結末となった。この報告文が文章のみなのは、そのような事情による。あらためて、中川一さんにお詫びするとともに、ご一緒した中ユミさんと遊部さん、写真を楽しみにして下さっていた会員の皆様に深くお詫びしたい。そして、「山では、厳しすぎて写真が撮れないこともあれば、危険から脱出するために、カメラなどの所持品を捨てて帰ってくることもある。だから、全く気にすることはない。」と言って下さった中川一さんの思いやりに深く感謝したい。
合宿に参加したいと申し出た後、内容を知るに従って不安になっていった。まず、ザックの重さ。春合宿とはいえ冬装備で、重量は最低でも12〜3キロと聞き「ええっ〜」と驚く。1日の行動時間を地図で見ると5〜6時間はある。そんな重いザックをかついで山に行ったことがないし、さらに雪もある。これは身の丈を超えていると心が重くなってしまった。しかし後悔しても遅い。時間があると大文字山へ行ったりジムへ行ったり、ジタバタしながら当日を迎えることとなるのです。しかし今考えると、私以上に不安な気持ちでおられたのがリーダーの中川さんであったろうと思い返します。こんな無知・山未経験者を引き連れての山行。自分が楽しむという要素も少なかったであろうし、春合宿とはいえ残雪のある山行。さまざまな事を想定されていたことと思います。そんなことに思いをめぐらせることもなく、私は装備表に書かれたハーネス、目出し帽、オーバー手袋、ピッケルなどの文字を見て「これ、いるんですか〜?」と内心荷物が重くなるなと思っていた不届き者でした。実際オーバー手袋を買いに走ったところ店頭にはすでになく、「ゴールデンウイークの山行ならいらないでしょ」といわれてしまったこともあります。さて、そのオーバー手袋、ピッケル等はイクさんが快く貸してくださり、そして終わってみるとこれら全ての装備はなくてはならない、私にとっては厳しい初めての合宿となったのでした。
初めて経験でまず驚いたこと、それは新穂高温泉に到着して、そのまま車での仮眠でした。えっ、助手席にすわったまま寝るの?しかも数時間後には出発という。なんと過酷な〜と思いながらもその夜の星空はとてもきれで、眺めているうちになんとか眠ることができました。
明けていよいよ満タンに詰まった45リットル+10リットルのザックをかついでの山行がスタートしました。
やはりザックが重く、肩を揺さぶったりしながらも30分ごとの休憩にかなり助けられました。このザックの重さは歩いているうちに少しづつ馴染んでくるようになりました。
帰りには増水して渡るのに苦心した白出沢出合もこの日は快晴で、この景色をこの目で見たかった!、という山々の風景が目の前に広がっているのを行動食を食べながらぼっーと眺めていました。
この後、藤木レリーフから槍平まで続くだらだらとした登りがつらかったのですが、1歩1歩確実に近づいているから!という気持ちで歩いていたのを思い出します。そしてさらに初めて経験するのが雪上でのテント生活でした。まず雪を整えてからテントを張る。なるほど…。テントの横に夕食のための雪のテーブル作りが始まりましたが、完成したこの素敵なテーブルは寒さのために使わずに終わりました。残念。水の確保にとゴミ袋にきれいな雪を入れるが水場があると教えていただき、行くと木の根元の雪が溶けて渓流がむき出しになっていた。それが水場。てっきり水道があるのかと思っていたので少し驚く。その夜はうなぎ入りチラシ寿司を頂くが、うなぎがパックに入ったまま丸ごと出てきた時も少し驚きました。雪の上に張られたテントで眠るのも初めて。地面からの冷気が体から熱を奪うようでジンジンと寒く、なかなか眠れずカッパをまとったりしていましたがいつのまにか眠りつき、目覚めた時は雨の音がしていました。
昨日の晴天が嘘のような悪天候。しかしこの日が本番。朝食をすませ、カッパ・オーバー手袋と服装を整え、必要なものだけを詰め込んだザックを背負って、槍ヶ岳に向けていざ出発しました。小雨まじりの強風が吹き荒れている。荷物が軽くなったせいか足の疲れは思った程なさそうなのがうれしかった。前を歩く中川ゆさんの足跡をトレースするように黙々と歩いた。だんだん斜面が急になっていく。比較的平らな箇所でアイゼンを装着する。斜面で休む時はザックが流れないようにピッケルで止めておくことも、今回の山行で学んだ大事なことだ。足下の雪が所々アイスバーンになっていて1歩踏み出すのも恐い箇所がある。さらに斜面が急になってくると恐くて下を見ることができない。風、雨ともに止む気配がない。前を行かれる中川ゆさんに見習ってピッケルを使った。方向をかえる度にピッケルを持ち変える。ピッケルがなければ歩けそうもない。ちらっと下を見ると「ひぇ〜〜」という感じで腰がひける。「なんで、こんなとこに来たんやろ〜〜」という気持ちになり、そんな気持ちが姿勢にも表れていたと思われます。まだか、まだか、まだか、という気持ちで歩いていました。
ようやく辿り着いた平地にはキャンプ場の看板が。こんな所にキャンプ場?と私の持っている認識では考えにくいことでした。槍ヶ岳山荘の中はこんな悪天候にもかかわらず、沢山の人で賑わっていました。暖かなストーブの前でよくやくほっこりした気分を味わうことができました。すると、なんとピークを目指して出発するグループがいる。私もせっかくこんな恐いを思いしてここまで辿り着いたのだから、もうちょっと(!?)頑張ってピークを踏みたい気持ちがなくもない。が、「もういい、ここまででもう十分〜!!」の気持ちの方がおそらく強かった。中川リーダーは降りる決心をされた。無理もない。私の技量ではここまで来れただけでも十分すぎる。風雨ともに強い。このまま様子を見ても天候は回復しそうな気配もない。しかしあの急な斜面を降りることを思うと気分は萎えた。小屋の中はこんなに暖かいのに、また再び外に出て、あの急な斜面を歩かなければ帰れない。帰りは目出し帽にゴーグルをつけた、が、このゴーグル、かなり昔に使っていたものでスポンジ?の部分がモロモロになっていて使えなかった。再び来た道を歩き出した。が、あの急な斜面はどこだったの??という感じで意外とあっけなくなだらかな斜面へと降りていた。山スキーの方が軽快に滑ってらっしゃる。中川ゆさんは尻すべりで楽しそう!私もやってみたい、と挑戦。
なかなか快適!面白い〜!で、思っていたより楽にテントに到着しました。しかしこの合宿のために新規購入した雨カッパはこの時の尻すべりでL字型の裂け目を作っていました。変わらず降り続ける雨のため、テントをたたみ避難小屋へ。避難小屋に泊まるのも初めてのこと。少しワクワク。昨夜は賑わっていた小屋もこの日は貸しきり状態ですが、天井が低くて何度も頭をぶつけてしまいました。この夜の夕食は丼。3種類の丼をくじ引きで選んで食べました。デザートは湯浅さんの手づくりプリンを雪で冷やしておいしく頂きました。雪のある山行ではプリンが即できるというのも驚きでした。昨日と変わってこの夜は小屋の中なので底冷えに脅かされることなく眠りにつきました。
最終日もやっぱり雨。荷物をまとめて出発するが、来た時と同じ道を歩いているのに
まるで風景が違う。この雨と風で滑り落ちた雪が、足下にさざ波のような模様をつけ
て広がっている。雪に覆われていた沢が姿を表し、洗濯機のように勢い良く渦を巻い
ているところもある。初めて見る景色に目を奪われた。晴天ならこんな風景には巡り
合えなかった。風雨にさらされ姿を変えて眼前に広がる風景は、例えが悪くて大袈裟
ですが、阪神大震災の後の神戸に立った時みたいに、ぼっーと立ち尽くして眺めてお
りました。藤木レリーフは初日にも休憩をとった場所ですが、そうと気がつかずに休
んでいた。言われてはじめてあたりを見回して、そういえば見覚えが…という感じ。
ここまで帰ってきたら後は楽勝だろうと思っていたのが、その後道に迷うこととなり
ました。来た時と風景が違う。地図を拡げても今いる地点がつかめない。道を探して
先を行かれるリーダーを、迷子になった子供が親を待つような気持ちで待っていまし
た。ようやく登山道が見つかり、安心したのもつかの間。初日にはのんびり行動食を
食べながら休憩をとった白出沢出合がかなりの勢いで増水しており、数名が立ち往生
しておられました。この時もリーダーの心境は新人2人をかかえ、大変だったと察し
ます。私もやはり「この急流をどうやって渡るの〜!」とドキドキしておりました。
雨の中ハーネスを装着。リーダーが体にザイルをつけ、先頭きって激流の中を渡っ
て行かれました。中川ゆさんがエイトカンを使ってビレイされました。祈るように見
ていました。無事渡渉され、川にザイルが渡されたので少し安心、湯浅さんが2番手
で行かれます。私はその様子を見る余裕もなく、次に渡るための準備に追われていま
した。いよいよ渡渉。慎重に渡りはじめるが流れに負けてロープぶらさがる鯉のぼり
のようになってしまい、ずぶ濡れとなってしまいましたが、なんとか渡り終えました。
リーダーの顔に笑顔が。中川ゆさんも無事渡渉され難関突破。ぐっしょり濡れた衣服
とザック、しかし無事渡れたことに達成感を感じていました。その後は早く車まで戻
りたい、この濡れた衣服を一刻も早く脱ぎ捨てたいという思いでひたすら歩きました。
中川ゆさんと湯浅さんは道中、花を見ながら歩いておられましたが、私はその前をひ
とり、せかせかと足早に歩いていたのでした。その後温泉で極楽気分を味わい生き返
り、暖かいそばを食し、お土産を買い、無事、京都帰ることができました。
帰った直後は「よう行けたなぁ」と思ってましたが、3ヶ月たって思い返すと「行け
た」ではなく「行かせてもらったんだな」とつくづく思います。予想に反しての悪天
候で、中川リーダーは大変だった思いますが、だからこそ経験させてもらえたことが
沢山ありました。中川ゆさんは後続のために雪を踏み固めながら歩いてくださりまし
た。様々なハプニングに見舞われたにもかかわらず、今こうして元気でいることを、
改めてありがたく思います。今度はぜひめぐまれた天候!?の時に、槍ヶ岳リベンジ
ができたらと密かに思っています。