京都雪稜クラブ - 若さ溢れるオールラウンドな活動 −京都岳連加入−
メンバー | L福澤(兼会計),SL島(兼装備),廣澤(食料,気象) |
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期日 | 2005年4月30日〜5月6日 |
地域・山域 | 北海道 日高山脈 |
ルート | 芽室岳〜カムイエクウチカウシ山 |
山行形態 | 残雪期縦走 |
総会前の3月、GWはどうすんべ?とぽけーっと考えていた。
今年のGWは、年休を取らずに1週間休むことができる。雪稜の合宿企画では早月が上がっていたが、今シーズンの我輩は金毘羅北尾根でアイトレを一回やっただけで、全く雪上アイゼン歩行をやっておらず、これは却下。剣周辺山スキーというのも上がっているが、日程が火水木となっており、せっかくの休暇がもったいない。主力組は日程どころか行く先も決まっていない。面倒くせぇ、自分で企画しちゃえってんでメンツを探してみた所、3月に南ア長期縦走をやった2人(島、廣澤)が網にかかることとなった。
行く先は雪があるところならどこでもよかったのだが、知床だ日高だ東北だと声が上がってきた。我輩がとりあへず、日高幌尻岳〜コイカクシュサツナイ岳までの具体案をぶち上げた所、島さんが芽室岳から入山して全山縦走(芽室岳〜楽古岳間の約100km)のステップにできないかと打診してきた。今回コイカクまで脚を伸ばせば、次回同じ日程で楽古まで行けるだろうという算段である。
よっしゃこれで行こう。こうしてほとんど瞬間的にルートは決まってしまった。実働は4月30日から5月8日まで。コイカクまででは日が余るが、ペテガリまで行くと日が足りない。それならコイカクから1839峰を軽装で往復して下山しよう。
島さんとは一度も一緒に山に行ったことがなく、廣澤さんとも1度日帰り山スキーに行ったことがあるだけなのだが、2人の実績からして日高なら問題あるまい。日高のアプローチ、エスケープルートなどの知識、経験値が圧倒的に豊富ということで我輩がリーダーを務めさせてもらうことになった。
ところが今年の4月から関空〜帯広便が運休になっていることが分かり、他の手段を考えねばならん。すると島さんが、敦賀新港を早朝1時半に出発してその日の20時半に苫小牧に到着するフェリーがあると教えてくれた。我輩が紅顔の北大生だったころには存在しなかった便である。フェリーも速くなったもんだ。苫小牧からはバスとJR夜行で新得、タクで山小舎芽室岳まで1万円くらい。帰りは島さんのバースディ割引が使えるので、これまた格安で帰京できる。名古屋小牧着の便を利用。新幹線は使わず新快速を使う。
かくして総会開始前のZIGZAGで第一回打合せを決行。ただ今プー子の廣澤、通称プーの島、仕事はしているがプーに見られる福澤でプー友の会を結成。安く行きたいパワーは、山への情熱をも上回るものがある。プーをなめんなよ!
22時、京都より福澤、山科で島、草津で廣澤が乗りこみ久しぶりの長旅が始まった。北陸線を乗継、終点敦賀へ到着。タクシーで敦賀新港へ。山というよりこういう長旅がスキだ。
1時30分出港。混雑する2等を避け、贅沢に2等寝台をチョイス。すぐにロビーで酒盛りが始まった。
福澤は長袖シャツを忘れたらしい。廣澤は船酔いでダウン。延々と ビール、ウィスキーを呑み廣澤の回復を待ち床につく。20時、苫小牧着。バスで苫小牧駅へ。南千歳経由で新得駅へ。
2時35分新得駅に待たせていたタクシーに乗車し芽室小屋で下車。(島のプー不幸その@携帯電話が無いことに気づく。2ケ月前に無くしたばかりでしょげ返る。)身支度を整え4時40分歩き始める。3月初旬の南アから実に2ケ月近く何もしないで北海道へやってきた。ゆっくりゆっくりと上る。芽室岳の稜線近くは急登となり、風も非常に強く、ガスで視界も不調となる。稜線に出て緩やかに20分で山頂に着く。
1人目の登山者は芽室岳を往復して帰っていった。やがて、空は晴れ上がり初めて見る日高山脈が姿を見せた。標高は低いが奥深くどこまでも果てることの無い大きな山脈だ。遠くに十勝や夕張の山脈が真っ白に輝いていた。島はスノーシュー、二人はワカンで快調に進む。どこにでもテントを張れそうな穏やかなアップダウンが続く。12時で予定終了とし、1726ピーク手前でC1(1565)設営。初日はフルーツたっぷり杏仁豆腐、夕食も早めに済まし18時消灯。毎日2時起床、4時出発、12時迄の行動を基本とし、雪の硬い時間に距離を稼ぐこととする。
この日は天気が崩れそうだとのこと。4時45分出発、1726へは急登だが雪も硬く快調に進む。この日も穏やかな斜面が多く、特に問題なし。少し天気が崩れ始めたが何とか持ちこたえてくれた。毎日強風が吹き付けるためブロック積みはかかせない。12時にピパイロ岳手前にC2(1605)を設営。夜、予定通り雨となり、ブロックがとけ強風にあおられた。(島のプー不幸そのAガスヘッドで右手親指をやけど)
2時に起き食事を取るも雨は止まず、停滞とする。8時頃には雨はあがり10時30分出発する。ピパイロの急で腐され雪の登りに苦労する。上部を慎重にトラバースし西向きに進路をとる。1967は真っ白で立派な山だ。結構な急登で山頂で一息入れた。下りはアイゼンが必要との事で履き替える。1904を過ぎ穏やかな小ピークの南側をトラバースし、1856手前の下り斜面で15時となり半日行程を終了する。本日は下り斜面を利用しL字型に掘り下げてテントサイトを設営(1830)。(島のプー不幸そのB廣澤のアイゼンが上唇を直撃、出血)
4時50分出発。風は強いが天気は上々。唯一ワシが夏に歩いた事のある幌尻〜戸蔦別間を今日は歩く。 5時36分、北戸蔦別岳。少々進むと戸蔦別カールから奇妙なトレースが…熊さんである。稜線を越え、額平川方面へ下っていったらしい。福澤や姉御と熊に襲われたんでは死んでも死に切れない。7時28分戸蔦別岳に到着。一息ついて幌尻岳を往復することとする。一旦戸蔦別岳を下った所に幌尻岳を往復するために荷物をデポした先行パーティーがあった。戸蔦別を登らずにトラバースしたのだ。我等はもう一度、戸蔦別を登ることになる。幌尻の登りに差し掛かった所で先行の3人組とすれ違う。札幌医科大学チームで同じく1839を目指し5月10日までの予定で進むらしい。なかなか体のでかい3人組だった。9時10分、強風吹きすさぶ幌尻岳山頂着。雄大で真っ白でワシはこういう山が好きだ。幌尻でポロ尻する???
ほんまに飛んでいきそうな強風だ。戸蔦別を登り返し南へ下りきった所で本日終了。11時40分、本日も下り斜面を掘り下げてテント設営(1850)。このころより福澤がケムシのように思えてきた。何故かは判らぬがそんなイメージだ。ワシは「ケムンパス」と立派なあだ名を付けてやった。本人もたいそう気に入った様子で、名を呼ぶと間もなく返事が出来るまでに成長した。ケムンパスは酒をこぼしたらしく、一挙にトーンダウン。残り少ないワシのウイスキーを少々分けてやると、満面の笑みだ。コッフェルも非常に無残なもので、どこか大坂君に似ていて興味も無いのにいじりたくなる。またワシの人生のモットーである「誠実と奉仕」という言葉とワシの座右の銘である「腐っても先輩」という最高級のほめ言葉を教えてやった。これで少しはワシを尊敬するだろう。
5時15分出発。(島のプー不幸そのC3月に買ったばかりのストックをペグ代わりに使用していたが、抜けずに折れた。)今日はエサオマンを越える。懐に北カールを抱き雄大で、頂上はトンガリ頭だ。ワシはエサオマントッタベツポーズを開発した。時期を見て特許を申請しよう。神威岳付近は巨大雪庇地帯らしい。今回稜線がハイ松で判りやすく難なく通過したが、1ヶ月早ければどうだったろうか…エサオマンの手前の岩場も雪庇があれば難しそうだ。グサグサの長い登りに耐えながら頂に立つ。またまた強風だ。早々に下り札内岳分岐へ登り返す。12時45分行程終了。すぐ西側に綺麗に整地された幕営跡があり楽をさせてもらった。(1850)天候は徐々に悪化し雪となる。斜面を切り崩したテントサイトであり、風上側が尾根に守られる形であった。しかし、夜半より間逆の方角へ風向きが変わり強風にあおられた。日高では全方位にブロックを積む必要性がある。急に風向きが変わるように感じる。少しサボると夜が大変だ。
2時起床。外は雪で視界は無い。食事を取り、夜が明けるのを待ったが状況変わらず。一応停滞を決め込みもう一度寝袋に入った。風が和らぎ、下部の視界が開けてきたので9時40分出発。11時50分、春別岳。この山の前後は難しくは無いが、長い岩場が続く。ここも雪庇が発達していれば怖いところだろう。1917を下りきった辺り、1732の手前で幕営、14時30分行程終了(1745)。カムエクが目の前に構える絶好のテント場である。なかなかいい山だ。(島のプー不幸そのD腹を下す、そのEぞう足が破れテントに羽毛の雪が降る。)この日も懲りずに風上にしかブロックを積まなかった。結果は同じで、夜中より風向きが変わり強風にあおられた。
5/7より天候悪化の予報。かなり荒れそうだ。コイカクへの縦走は諦め、カムエクから本日下山とする。朝は4時45分出発。朝焼けが美しいが、風が強くメチャメチャ寒い。1903のジャンクションには良いテント場がある。少々下って、いよいよカムエクへの登りにつく。6時20分カムイエクウチカウシ登頂。まだまだ日高の山は果てしない。しかし左右に広がっている海は近づいてきた。東方に見える釧路方面の海は朝日に輝き、眩しいほどのオレンジ色の光を放っている。西側の苫小牧方面は紺碧の海だ。しばし今日まで歩いた縦走路を眺め、そしていづれ歩くであろう南日高の山々に新たな目標を感じ、早期の実現を誓い下山路につく。8時00分ピラミッド峰(1853)、8時25分1807着。いよいよ下りである。北北東に派生する急尾根を慎重に下り、徐々に傾斜は緩み東へ派生する尾根に乗る。(島のプー不幸そのF急に立ち止まった廣澤のワカンの刃が今度はワシの下唇に直撃、出血)1297、1227を経て札内川と七ノ沢の合流点、途中からダムが見える辺りを目指して下降する。標高が1000mを切った頃、アクシデント発生。(島のプー不幸そのG下山中、木の根元の大きな窪地に落ち、支えようとした右肩を強打。5日後、痛みが引かない為病院へ…骨折判明。)そろりそろり急斜面を下り、なんとか林道へ辿り付く。(島のプー不幸そのHサイフが無いことに気づく。無事見つかれば焼肉をおごる約束をし、見事にシュラフから財布登場。下山後焼肉パーティーを主催することに…)札内ヒュッテまではデブリがひどく林道をまともに歩けない。6キロを2時間かけて歩く。ダムまでの5キロは真っ暗なトンネル歩きで約1時間で歩く。4時に待たせておいたタクシーに乗り込んだのは4時30分。ワシのドジのおかげで大分時間をロスしてしまった。中札内まで6千円。あと帯広までバスにのり720円。ジャパレンで3日間レンタカーを借り、2万700円。今日はビールを買い込み、夕食をすませて(島のプー不幸そのIレストランで水をこぼし座布団2枚ずぶ濡れに)、ケムンパスお勧めの剣小屋へ向かう。先客が1名ストーブに薪をくべ、ワシらの到着を待っていてくたかのようで、あたたかな部屋で早速祝杯をあげビールで鎮痛剤を飲んだ。冷やさねばならぬのに温泉につかり、ご法度の酒を飲む。しかしやたらと酒が進むんじゃ。
明け方よりの雨が雪となる。姉さんのご要望により六花亭の本店でお菓子をむさぼり、ケムンパスのご希望で帯広駅前の「ぱんちょ」というブタ丼専門店へ向かう。ケムンパスのお勧めだけに信用は出来なかったがこれはうまかった。幕別の温泉を堪能し、ビールを飲み、昼寝をした。街へ下りると、とたんにぐうたらになる。焼肉セットを購入し、下山報告のため家に電話をした。(島のプー不幸そのJ高校へ進学した息子がラグビーの初試合で足首を骨折したことを知る。息子5/9、ワシ5/12二人して骨折バースデイ)しこたま肉を食い、酒を飲む。
昨日からの雪は15センチほど積もっている。まず、ケムンパスのご希望により富良野にある後藤純男美術館を拝観。とても美術館といういでたちでないケムンパスは美術がわかるらしい。それにしてもケムンパスは誰も買おうとは思わないモンペふうの赤茶けたジャージと山で着ていた赤黒いフリース、極めつけは沢用の見るも無残なフェルト付の地下足袋だ。このフェルトが厄介である。ヤツの歩いた後は新種の生物がやってきたかのような足跡がペタペタとクッキリ付いてくるのだ。この後、バスや飛行機、飛行場やJRにまでも奇妙な足跡がペタペタ付いたのは言うまでも無い。こうして入場料の千円を無駄にした後、姉御の希望で姉さんの親の出身地でもあるらしい旭川へ向かい、今時の旬である旭山動物園を訪れた。ケムンパスはすっかり溶け込み、飼育員のようである。小さいながら工夫を凝らした面白い動物園である。
ワシはなんかの時に役立つであろうと、昨日にジャスコで手に入れていた視力検査表で一通りの動物達に視力検査を実施した。ペンギンだけが少し反応した。動物達の健康管理に少々貢献し大満足で園を後にした。これまたケムンパスの希望により幌加温泉へ向かった。ひなびたいい温泉だ。美術と服装以外のセンスはまずまずというところだ。3日連続の剣小屋で夕食は鍋を食った。激臭靴下をストーブ前に干した。(島のプー不幸そのK靴下が丸焦げとなった。)
とうとう北海道を後にする日が来た。朝から芽室で温泉に入った。そして再度六花亭を訪れ、ワシと姉御はお土産を買い、ケムンパスは足跡というお土産を残した。姉御は空港の探知機でキンコンカンコン鳴っている。ナイフを隠し持っていたようだ。慌てて預けた荷物に入れられるか確認するも、今度は荷物の半券が無い。とうとう不幸の神は姉さんのほうへ向きを変えたらしい。ワシの荷物になんとか治めて改めて探知機を通るも、またまたキンコンカンコン鳴っている。ぞうりがひっかかったらしい。姉さんはぞうりに何か仕組んでいるのだろうか?みなさん、姉さんは危険です。11泊12日の旅であった。小さなものから大きなものまで12日で12不幸。1日1不幸である。徐々に姉さんの方へ不幸が移動中であるが、やはり不幸が一番似合うであろうケムンパスの方へ向きを変えないかと祈りつつ北の大地を後にした。
日高という山は、京都の人間にとってはなかなか遠い存在である。山好きでもなかなか歩くことは無いだろう。色々なきっかけがあるのだが、去年は楽しみにしていた西表島を直前で逃してしまった。今回は福澤が誘ってくれたことで貴重な山行が実現できた。その山をよく知る人間と山へ行くことは、この上ない安心感がある。安心しすぎて数々の失態をやらかしたことは大いに反省するものでもあり、適度な緊張感を持たねばならぬと改めて感じた。今年の初めに多くのホラを吹いたのだが、春季の日高山脈全山縦走は近未来的に実現可能なものとなりそうである。廣澤も9日分の食料を軽量化し、飽きのこないメニューを作ってくれた。長期の縦走は飯が楽しみに出来ないと辛い。朝2時起きで4時出発。12時幕営で。18時消灯。明るいうちにデザートを食い、夕食をとった。行動に余裕があり時間にも余裕が生まれた。日程にも余裕があったため、不安は最小限に抑えられたのだろう。カムエクからの下山も、天候を考えれば良い判断であったと思うし、福澤はリーダーとして最大限の活躍をしてくれたと思う。ガスは大1個で3人の2日分であった。6日分で大3個を使用し3個が余った。あと3日の予定であったので大4.5個で足りた計算になるが、予備としてはこれくらい必要であろう。着替えは最小限に抑えるため着てきた服のみを着替えとして担いだ。あとは靴下1枚と手袋、ダウンジャケット。あと軽量化が可能なものといえば行動食だ。今後の宿題として是非とも確立したい。寝具は夏用350gの物を使用。体がでかいので真中に寝させてもらった為寒さは感じなかった。ジャケットは着ることなくシュラフに突っ込むととても暖かかった。足元にはアウターをかぶせた。わかんで沈まなければ良いのだが、現在の体重ではスノーシューは仕方あるまい。ダブルストックは雪道歩きには必需品だと思う。高いが軽量化が可能なものでもある。ザックも45+15の物を使用、初日でも若干の余裕があった。とにかく、山を楽しめたなぁ。久しぶりに原点に返ったようで本当に楽しい旅になりました。またこんな山をやりたいと思う。
ワシは北海道に来るのは3度目である。一度目は中学3年生の時に10日間、二度目は4年前に43日間、そして今回であるが実に3回で65日もお世話になっている。とにかく旅に出るといつまでも旅をしたくなる。そしてつくづくこんな長旅が楽しいなぁ、と思うのである。
記 島のプー
予定が立てにくい状態であったが、はやくから福澤氏からはおはなしをいただいていた。とにかく長期縦走にゆきたいとおもっていたので、ねがってもないチャンスだった。地図をつくって準備をすすめる。地形図の枚数は8枚。貼り合わせていてワクワクしていた。計画のカタチもできてきて、食糧の試食や走り込みをはじめた。
日高に通いつめている福澤さんは本当に詳しかった。「サワ屋」というイメージしかなかったのでとても意外だった。しかし、これだけ熟知しておられる方がいるのは実に心強く、自分にとってもこのような山があればいいなと、山との新しい付合い方も教えていただけた。
北大出身の山口くんも資料を提供してくれた。彼の記録、地図は丁寧で参考になった。山だけでなく、帯広のオススメもおしえてもらったおかげで下山後のたのしみが増えた。ほか、天気図の特訓もしてもらった。陰ながらの協力に感謝している。
先の南ア敗退の理由のひとつに雪対策があった。お日サマが高くなるころアイゼン、わかんにつく雪ダンゴが重くて足が上がらない。DIYセンターに買物に行ったとき、車用のワックスはどうだろうか、と閃いた。スキー板用も試してみたがダメだった。強力潤滑油スプレーで対処することとする。
往路は船、復路は飛行機。道内は電車(特急!)からバス、タクシーを利用する陸海空フル活用。今回の山行は旅のにおいもいっぱいで、計画時から忙しく、興奮させられた。
往路の船中では、船酔いの心配をすっかり忘れてビールを呑んでしまい、殿方には心配をかけてしまった。もっと早く酔止薬に気づけばよかったのだが…。とはいえ、船旅は好きな交通手段の一つである。ぐんなりへろへろで倒れている間に、いつのまにか津軽海峡を越え、夕焼けに染まってゆく半島がみえてきた、渡島だろうか?ゆっくりゆっくり近づいて、青い海上には白いかもめがキモチよさそうに飛んでる。
芽室小屋はこぶりできれいだった。薪ストーブがあって、あぁもう寝ちゃいたい、とおもったがそうはいかなかった。いきなりドアにカギがかかってしまったり、兄貴のケータイがなくなったり、この山行の前兆ともおもわれるようなハプニングもあったが、さっそく雪の上を歩き出した。
一つ目のピーク、芽室岳に立って初めて見た日高山脈は「山だらけ」。雪の稜線が幾重にも左右に折重なり、浮き沈みしている。なんて山深いんだろう。朝方みえる雲海はまるで海のよう。それにしても不思議なのは、立派にひとつの『山』にみえるのに名無しのピークがおおいコトだ。広い目の国境稜線を快適に歩いていく。場所によっては雪の姿は消え、すっかりハイマツがみえていた。目指すピークがみえてはどんどん近づき越えてゆく、大きなカールはプリンをスプーンですくったみたい。
1ピッチの間隔が短く感じられる。えッ?もう1時間???という具合。地図からイメージするよりもじわりじわりと長くてキツイ傾斜を登ってゆく尾根がおおい。右へ左へジグザグに歩いてしのいだり、小幅で歩いたり、次第に一気に登りぬくことがおもしろくなってきた。
おてんきは微妙だった。大半は曇空、時折青空。雪にも降られたが、ほとんど寝ている間のことで行動中はまずまずだった。が、風が強い。右へ左へおもしろいようになぶられた。特にひどいところは足元はほとんど夏道が顔を出していて、ハイマツもいじめてくる。泣きたくなるくらい辛かった(特にエサオマンから1869JP)。頂上付近(ピパイロ西峰、幌尻、エサオマン)などは飛ばされそうで、治まるまでとてもじゃないけど動けなかった。朝焼けに恵まれた最終日、カムエクに向かう歩き出しは冷えた風が十勝側から吹き荒ぶ。すっかり春めいていたが、頬打つ風は冬を想い出すほどするどかった。目出帽を被っていても左手で顔にバリケードをつくって歩いた。
張り出した雪庇は魔女の鼻みたいに大きかった。根元から崩れ落ちていたりハイマツとの際に亀裂が入って口を開いていたり、稜線からみえる向こう斜面は雪崩れていたり。踏み抜きに喘ぎながら前進した。
出会ったのは5パーティほど。ヒトに会うことのない山行を描いていたので、チト意外だった。我々を先行していた札幌医大の3人パーティと幌尻アタックですれ違った。2日余裕を持って同じ1839峰を目指しているらしい。クマらしき足跡を戸蔦別手前でみた、それを問うてみると「アレは絶対クマですね」ひぇーッ!途中で彼らのと思しきデポがあったが、ほとんどの荷を担いでいたようにみえた。クマ対策?風と闘いながら前進するが、雪も腐りがちでダンゴが気懸かり。足下ではクマが待ってるかとおもうと慎重になる。広大なカールをゆったりと歩くクマの姿をみてみたい、とおもったがなかなかそう簡単には…
山中6泊のテン場はステキなところがおおかった。C1では外でティータイムを過ごした。C2は強風雪でブロックも崩壊、C3は山肌を掘下げて戸蔦別カールと向き合う展望に恵まれた幕地だった。月明かりに山並みは浮立ち、朝焼けにカールは染まった。C4も強風を避けるため雪を掘削しブロックを積んだ。C5は札内岳JPにあった先住者跡地を拝借、エサオマン北東カールを見下ろす。予報ではやはり土曜日には崩れて火曜日まで回復しない見込み。今後の作戦を練る。『焼肉』『ビール』『そのためなら、走ってでも…』、話題の中心は下山後の自分へのゴホウビでもちきりだった。やむを得ず(ゴホウビのためではない、天候への配慮から)、コイカク、1839峰はあきらめカムエクから下山することが濃厚になる。しかしなぜかウレシそう…。夜半より風が巻いているのか、寝ていてもグイグイ押される。音もすさまじい。下山後のゴホウビのハナシで舞上がった我々に山の神のバチが当たったのだろうか…。最後のC6は九ノ沢カール上部のコルに張った、カムエクを望む絶景。ケムンパスは「ココは過去に福大生三人がヒグマに襲われた一件の、最初にクマと出会った場所だ」とおしえてくれた。ひぇ〜ッとビビリあがらせておいて、気味悪がるワテにリーダーは「ココは伝統的なテン場なのだ」と太鼓判を押した。イケズ!しかし素晴らしい展望であった。海が望めて、暮れれば静内方面の夜景がみえる。山中最後の朝は神々しい朝焼けと共に始まった。
稜線からは日高側に海がみえた。最終日まで気づかなかったが、いつの間にか十勝側にもみえていた。海の見える山は大好きだ。カムエクから歩いてきた白い稜線を振り返る。芽室山頂からみたときと同じ青空の下で、日高ばかりでなく向こうのほうの山までも眺めることができた。なんて山かはさっぱりわからない。こんな景色を満喫できるなんてホンマにシアワセやとおもった。感慨深くこの日高の思い出を胸に山頂を後にした。
終始マイペースで歩かせてもらったオカゲでバテてしまうこともなく、キゲン好く稜線漫歩できた。しかし、核心はこの後だった。1807mピークから急降下、クサッた雪に煩わされながらも順調に下っていた。が、最後の200mほどは滑るわ転ぶわ落ちるわ…、兄貴は大きな樹の根方に落っこちて相当痛そう。やがてヤブ漕ぎになり、予想外の渡渉を経て林道へ出た。今シーズン歩いた林道の中でも短い方だったので、ハッキリ云って甘く考えていた。いくつものデブリを乗り越え乗り越え繰り返すためか、全速力で歩いてもなかなか進まない、縦走路よりもよっぽど過酷やなァ。札内川の水はとんでもなく蒼く澄んでいた。デブリを越えそこなうとズルズルと冷たそうなあの水にポチャンか、とおもうと緊張した。いくつもくぐるトンネルは節電のため真っ暗で冷ぃやり、まったくのひとりだと怖くなってしまうだろう。トンネルの間にかかる橋からは、札内川に流氷みたいな雪の塊がぷくぷく浮いているのがみえた。札内ダムへタクシー屋さんに来てもらうお願いをしていたが、約束の時間がきてしまった。精一杯歩いてもどうにも間に合わないのがツライ。結局30分も待たせてしまった、ゴメンナサイ。
帯広に向かう車窓の風景をみて、やっと北海道にいるんだと実感が湧いた。下山後は、沢足袋に赤ジャージのケムンパスはカカトを浮かせて歩くのでペタペタと偶蹄目動物のような足跡を残した。兄貴とワテはダウンに草履という季節感のない出で立ち。旅烏三人衆、捨てても捨てても夜な夜な帰ってくるノラのように、剣山小屋を根城に北の大地を豪遊した。スリングで腕をつってる兄貴はなんとも気の毒だ。痛めたのが右でよかった、焼肉、ナベを食べるペースが上がらないようだ。アルコールのツケは夜中に襲うらしい、ウーンウーンうなされていた。
十勝・帯広周辺はモール温泉という世界でもココとドイツの2ヵ所しかない植物性の温泉。褐色の透明のお湯で『美人の湯』とか。体の芯からほこほこ温まった。まず、山の汚れを手っ取り早く帯広駅近くの公衆浴場でおとす―『タヌキの里』(石鹸類なし、¥370/人)。翌朝、しんしん雪の降る中、レンタカー屋さんでおしえてもらった幕別の温泉へ―札内ガーデン温泉(¥900/人)。タオルから石鹸類、歯ブラシ等まで置いてあって手ぶらでも充分。広間もあり、お風呂は2回も入って半日ゆっくりできた。この日は朝から雪、しんしんと一日降りつづけ、露天で雪見風呂をたのしめた。
放浪三日目の幌加温泉は三国峠の奥にある宿二軒の鄙びた温泉だった。女湯の内湯があると聞いたホロカ温泉はなんと既に16:00で終わっていた。二人が混浴をたのしんでる鹿ノ谷温泉に聞いてみると、コチラも内湯はあるとか。しかし露天は混浴、う〜んなんとかして入りたいモノだ。ほかにお客はいないらしいし、上がったら知らせてくれるように頼んだ。小さな内湯とはいえ大きな窓からは渓谷がみえる。チト熱めだが、透明のスッキリした温泉だった。いつでもアチラへゆけるように、脱衣所でスタンバっていた。扉が2ヵ所あって、一つは内湯へ、もう一つは混浴の大浴場と露天風呂へ。まだかまだか、と待ってる間になんと、ほかのお客さんがきてしまった!とほほ、残念…
長旅の〆は芽室で朝風呂、スーパー銭湯『鳳乃舞』(¥360/人、石鹸あり)。ココも例のモール温泉で、ベランダのような露天風呂がある。冷たい風が心地好かった。
六花亭本店では山口くんオススメの本店にしかない(現在は釧路店でも召し上がれるらしい)『さくさくパイ』をいただく。なんと、賞味期限3時間。ウワサ通りおいしかった。店内ではコーヒーがセルフ式でいただけ、最初はさくさくパイを、2度目の来店ではケーキをいただいた。とても好い感じのお店。
前々から機会があればゼヒいってみたいと思っていた旭山動物園に、殿方二人の賛同を得て訪れることができた。途中ケムンパスお気に入りの後藤純雄美術館に立ち寄った。大きな壁画に圧倒される。山の絵もよかったが、桜や紅葉の透明感ある色彩が印象に残った。旭川はオヤジの産地で何度か訪れている。交差点の住所に注意しながら走ってみたが、とんと思い出せなかった。
ワテの御贔屓はペンギン、いくら見ていてもあきない。ところがココの動物園は水中トンネルになっていて、ペンギンの泳ぐ姿、イヤ飛ぶ姿がとてもよくわかる。かような感じで様々な工夫をあちこちに凝らしてあって、小さいながらも楽しめた。オマケに兄貴はいつのまにか『視力検査表』を入手してい、いろんな動物の視力検査をしてまわった。中でもヤマアラシなどはご立腹され、カラカラと体中のハリを逆立てて怒りを表した。アザラシ館もおもしろかった。円柱状の水槽があって彼らがスーッと上へ下へ移動する。なんとも愛嬌あるゴマちゃん達だった。しろくまは生憎、負傷中とかでダイビングはみられなかったが、食べられるアザラシの気分になって見るコトができる。
遊びまくった北海道をとうとう発つ日がきてしまった。飛行機はとても久しぶりで、受付もすっかり忘れてる。荷物を預けて、人間のチェックを受ける。財布、貴重品袋、手荷物等を別で流して、人間だけ例のゲートを通過した。そのまま前進しようとしたら、ちょっと、と呼びとめられてしまった。そうだ、貴重品袋に首からぶら下げているナイフとドラえもんの笛を入れたままにしていた。まだ預けた荷物に入れれるとのことで引換券を探すが、搭乗の時間が気になって慌ててどこに入れたか思い出せない。兄貴のザックに便乗させてもらって凌ぐことにした。階下へ行って預けなおし、再度、チェックを受ける。今度はピューッとゲートを通過したため財布がポケットに入ったままで警報が鳴ってしまった。ハズカシやハズカシや、虫眼鏡のようなモノで全身チェックされ、さらに草履は別でベルトコンベアに流され、スリッパに履き替え再びゲートをくぐらされた。いやはや、旅に「なにか」は憑モノ(?)だが、今回も例にもれず最後の最後まであった。
飛行機は思わずスチュワーデスさんに「プロペラですか?」と問うてしまうほどコンパクトだった、「ジェット機です」。構内から飛行機まで渡り廊下でつながっておらず、一旦地上を歩いてタラップで乗込む。生憎の雨、建物のところで傘を貸してくれたけど、ケムンパスの沢足袋がまた湿してしまった。オカゲで名古屋へ降立ち、京都まで見事に蹄の足跡は残されていった。彼は臆することなく都会の駅を闊歩し、空をまたいで一本のトレースをつないだ。彼は最後まで立派なリーダーであった。
メンバーに恵まれ、実に貴重な経験を積ませてもらった。雄大な山々に抱かれて一週間も山中にいれたことを始め、初の北海道の山、しかも雪山で登れたこと、強い風に吹かれたこと、海を見れたこと…、たくさんの宝モノができた。必ず楽古までつなぎたい、そして日高山脈を歩きとおす。
天候その他の理由により1839峰までは到達できなかったが、カムエクをやっつけたことで落とし前はつけられたといってよいだろう。来年以降、同じ日程を組むことができるなら、ガケ尾根から入山し楽古岳まで縦走することは十分可能である。
今回は全日程にわたり1日の行動時間が8時間を切り、6、7分の力で抜けてしまった感がある。比較的天候が安定していた(風は連日きつかったが視界がよかった)ことと、メンバーの力量に負うところが大きい。強風時トップに立って引っ張ってくれた島さん、食料を軽量化すると同時に粘り強く終始ペースを崩すことのなかった廣澤さんに感謝したい。彼らだからアイゼンストックという最もスピーティな形態をとることができ、余裕を持って山行を完了することが出来たのである。
ピッケルをほとんど使わずアイゼンストックで通せたのは、メンバー全員がアイゼン歩行に長けていたことによる。不慣れな人がいたらピッケル必携だったであろう。常識で言えばGWの日高はアイゼンピッケルの山である。メンバーの力量によっては、早朝の堅雪をさけてアイゼンの着用を禁止することもあり得る。その場合、今回よりはるかに時間を要しただろう。島さん、廣澤さんとも山の現場経験が豊富な人だったので安心して行動をともにすることが出来た。2人は"自分には技術はない"というが、それは末梢的な登攀技術がないというだけのことで、真に必要とされる技術は身につけている。
日高、我輩にとっては庭のような山域であり、エスケープルートの状態も分かっていたのでまったく不安はなかったのであるが、他2名にとってはどうだっただろうか。極度に入山者の少ない山域に長期間滞在する貴重な機会だったと思う。今回の体験が雪稜クラブへの蓄積となればよいのだが。