北アルプス 立山カルデラ体験学習会(無雪期ハイキング・勉強会)

メンバー iku、t
期日 2005年7月15日(金)
地域・山域 富山県 立山
山行形態 無雪期ハイキング・勉強会
地図 山と高原地図36劔・立山
文責 iku

コースタイム

7月14日(木)
自宅発21:25→立山1:35着(仮眠)
7月15日(金)
起床7:00→立山カルデラ博物館前集合8:30→出発8:45→跡津川断層10:00〜10:40→六九谷展望台11:00〜10:30→多岐原平11:38〜11:40→立山温泉跡地〜泥鰌池立山温泉跡地・昼食12:20〜13:20→天涯の水13:20〜13:25→白岩ダム・インクライン13:40〜14:10→天涯の湯14:15〜14:30→博物館16:00〜17:00→食事→称名滝駐車場車中泊7:00(雨になる)

報告と感想

今回の立山カルデラ体験学習会に参加するに至る最初のきっかけはというと、新田次郎著「劔岳・点の記」を読んでからである。主人公の測量官・柴崎房太郎が明治40年ガイドの宇治長治郎らと立山に三角点を設置するためにあちらこちらを歩き回り、そして苦労の末、柴崎は含まれないがガイドの宇治長治郎と他測量官の4名が劔岳頂上を踏む。しかし、劔に初登を果たしたと思いきや、そこにはすでに千年も前の錫杖と剣があり、火の燃やした形跡があったという話だ。私は、この本で三角点の測量のために辿った登山道などを地図で確認しながら読み進めていた。すると、この時代と今と様変わりしてしまっている立山の様子が気になりだした。彼らが歩き回った道は今の地図(エアリアマップ)に記載されていないところが多い。そこに何度か出てきて、番頭や砂防の工事関係者と一悶着起こす立山温泉とはいったいどんな温泉だったのだろう、どこにあったのだろうと、いろんな疑問も出てきた。地図を見るとなんと常願寺川の湯川谷に「立山温泉跡」とちゃんと載っているではないか。この小説の時代は明治40年代。こんな時代に山奥に温泉宿があったなんて、それも芸者をあげて宴会をしていたなんて、なおさら信じがたいことだった。「跡」と地図に載っているからには何か廃墟か何かの痕跡があるのだろうか、とますます好奇心がわいてきた。
家に夫が古本屋でだいぶ前に買っていた、小笠原勇八著「立山・劔岳」という昭和14年に発行されたガイドブックがあったことを思い出し探し出した。その巻末に当時の登山道が綴じ込まれていた。それを見るとこのころにはすでに立山一帯の登山道は網の目のように張り巡られ、小屋も各所にある。
私は特に温泉に興味があるというわけではなかったが、江戸時代から立山信仰は一般庶民の間で広まり、また娯楽施設としての温泉がこのような山中にあったことに驚いていた。立山自体の開山は9-10世紀ごろだと言うことだが、江戸時代にはすでに、娯楽的な要素が立山信仰に含まれていたようだ。明治から昭和に至るまで、この立山温泉と共に栄えていたことが想像できる。コース設定を見ると、雄山に詣でたあと五色ヶ原経由でザラ峠を下ったあとや、松尾峠から新湯を経て雄山へ詣でる途中この立山温泉に立ち寄ったようだ。登山コース設定には、必ず立山温泉が組み込まれている。また、湯治目的の客も大勢いたようだ。
ちなみにこの本によると立山温泉の宿泊料金は

「泊二圓五〇銭-三圓五〇銭、自炊五〇銭」「温泉は炭酸泉で少量の硫黄を含み、主治効能は胃腸病、脳病、神経衰弱等で、中にも胃腸病の霊泉として有名である。宿舎も数棟あり,優に五六百人を収容し六月より十月まで開湯す。温泉の対岸に鰌池あり、湯治客の遊び場である。尚西南三十町のところに幽遂の景致に富んだ多岐原池、湯川上流二十町の邊りには刈込池があり、樺、モミジ、山毛欅(ブナ)」の鬱々たる風景をみせてゐる。」(小笠原勇八著「立山・劔岳」より引用)

と書かれている。
私が子供の頃(昭和30年前後)は関西の田舎町で過ごしたが、祖母の世代の人は何かにつけて、高野山や伊勢参りに温泉をくっつけて気晴らしをしていたのを思い出した。日々、重労働の農家の嫁にとってはそんなことでしか息抜きが出来なかった時代だったのだろう。 これを読んでみても、現在の我々が自然に対して求めるものと何ら変わらなかったことが窺える。自然の中で温泉に浸かり、リフレッシュしていたのだろう。現代人と大きく違うのは、信仰という建前が前面に出ていたことだ。江戸時代から脈々と続いた立山温泉のこうした賑わいは、昭和44年の豪雨で登山道が被害を受けたことと、アルペンルートが開通した(昭和45年)影響もあり昭和48年に長い歴史を閉じた。 現在の立山は宗教的な要素は薄れレジャー化した。室堂にアルペンルートで大勢人が入るのは、昔も今も人が求めるものはそう変わらないということかも知れない。 このような歴史的な立山にますます興味を持ち、立山温泉跡もぜひ見たいという思いは強まってきた。何か手だてはないかとネット検索等でも調べてみた。 すると野湯探検のレポートでザラ峠から下り、真川林道から折立に帰ったと言う記録がみつかった。地図と照らし合わせて読んでみると新湯と書いてあり温泉マークが付いているところが彼らの目的地であったようである。この新湯目的のレポートは、他にもネット上に少しはあった。これも少ないのは、「立ち入り禁止地区」になっているのだからあたりまえといえば当たり前。この新湯は、立山温泉とは別のもので1858年(安政5年)の大地震で冷水の池がお湯になってしまったということである。
有峰真川林道も折立から一般車は通行止めだ。ザラ峠からと真川林道からの入山報告はネットで見つかった。松尾峠から旧登山道を下ったというのも報告にあったが、これは迷って失敗に終わったようだ。どこから入るにしても、20キロ以上の舗装された林道歩きはごめんだ。どこかにいいルートは無いかといろいろ調べていたら、立山カルデラ砂防博物館主催の「立山カルデラ体験学習会」というのが夏の間行われていて、トロッコやバスでカルデラ内に入れるのを知った。
ちょうど、バスコースが7月15日の金曜日なのでそのあとは連休になる。あとの連休は前から興味があった大日岳の縦走をくっけて計画をした。そして、いつも劔や立山入るときに、室堂に向かうバスの車窓から眺めていた風景を、いつかゆっくりと歩いて眺めてみたいとも思っていた。数年前に「歩くアルペンルート」として整備されているらしいことも聞いていた。昔の地図(エアリアマップ)には載っていないのだが、2003年度版には出ている。ついでにここも計画に入れてコースの計画を練った。会で他にも興味を持つ人はいないかと思い、会のMLでも計画を流してみたが誰もいない。ここ十年近くクライミング中心で、長い間縦走や単なる山歩きはしていない夫を誘ってみたらのってきた。
15日は体験学習会参加。16日、称名滝から大日小屋。17日、奥大日から雄山までの縦走。18日、歩くアルペンルートで称名滝に戻るというコース設定にし、楽しみにしていた。

前夜出発して、立山の駐車場で仮眠。平日ということもあってか駐車場は空いていた。ガソリンを途中で入れ損ねて、朝ガソリンを入れに行く。これは正解だった。この辺の店はすべて5時閉店だった。8時半受付を済ませて2台のバスに乗り込む。ボランティアガイドが一台に2名便乗していろいろ詳しく説明してくれる。
バスは折立へ向かう。そこからは一般車両は通行止めの有峰林道真川線に入る。ちゃんと検問があり、不正に入るのを阻止している。今回は噴泉と護天涯は道が崩れているために見られず、代わりに跡津川断層を近くまで歩いて見に行けた。林道の途中の真川沿いにある跡津川断層は天然記念物に指定されていて、これもエアリアマップに載っている。飛騨山地北部を走る活断層で、白いかこう岩と茶色のれき岩が接しているがよく分かる。(写真参照
次はカルデラ内の展望が開ける、六九谷展望台へと向かう。この日は天気が良くて、ザラ峠の方の山々も上部は雲に隠れているがおおむね見渡せた。ここでは主催者側の目的でもある、カルデラ内での自然と災害についての説明を受ける。カルデラ内にある目の前の崩壊した痕跡はだいぶ修復されているとはいえ、痛々しい姿があちらこちらに見える。100年もの間、このカルデラでは砂防工事や、災害跡復興の緑化のための工事などが続けられてきたそうだ。この六九谷は昭和44(1969)年8月の豪雨で崩れた年号から名付けられたそうだが、ここから眺める立山の山々を頂いた谷底には、このような工事現場が広がっているのを見ると複雑な気持ちにさせられた。
大自然は人間にときとして無情の反乱を起こすことも改めて思い知った。富山平野にこの別名「暴れ川」と呼ばれる常願寺川が起こした反乱は、人々に牙をむいてきた。しかし人間と自然は戦わなくては行けないというものでなく、共存への手探りがこのような形で行われるのは仕方がないことだと理解できた。けっして人間が自然を崩壊するようなことになって欲しくはないと願いながら、この六九谷展望台を後にした。
またバスに乗り、いよいよカルデラ内へと見学は進む。着いたところは多岐原平である。「だしわらだいら」と読む。ここは安政5(1858)年4月9日推定M7.1の飛越地震(http://www.sonpo.or.jp/business/library/public/pdf/yj217_09.pdf)が発生し、立山では大鳶山、小鳶山が崩れ落ち(とんび崩れ)、そのときのとんび泥がカルデラを埋めて出来た台地だそうだ。今では樹木が茂り、緑豊かな森に復元さている。この中に地下40メートルからボーリングして湧き出ている美味しい冷たい天涯の水があり、帰りに立ち寄り味わった。この辺りはダケカンバの木が多く、白樺はないということだった。私はこの岳樺と白樺は標高差によって違ってくるだけで、同種の木だと思っていたが今回初めて別のものだとわかった。ダケカンバは、豪雪にも耐えられるように曲がりくねっていて幹が茶色がかり葉っぱはハート形という特徴を教えてもらった。雪に弱いまっすぐに延びる白樺はここでは育たないそうだ。バスの外ではすごい花粉が飛び交っていた。まるで粉雪が舞っているように見える。これは、なんの花粉だろうか? 新田次郎が立山温泉を探し回っていたときに

「風も通わぬような深い森林の中に踏み込んでいくと、雪のようなものが降りかかってきた(略)これは富山大学の吉崎政雄教授に見てもらったところ,『ヤナギ科のドロノキと思われます。これは日本の亜高山地帯にや野生しているもので、たまたま趣旨が舞い舞う時期にめぐりあわれたのでしょう』」(「劔岳・点と記」越中劔岳をみながら/より引用)

と書いている。ドロキノだったのだろうか。まるで、樹木の妖精が歓迎のためにダンスをしながら舞っているようにも見える。

そして、いよいよ今回の私の主目的地、立山温泉跡に向かう。バスが止まったところの近くに新しい供養塔が立っていた。ここは薬師堂があったところらしく、安政の災害時ここで30名が生き埋めになり、1984(昭和59)年に建立され碑である。墓標に名字がなく名前だけということは庶民ばかりだったようだ。博物館でもらったパンフレットに昭和初期の立山温泉の建物の図(図参照)が載っていた。これを見ると、先に引用した本による5-600人の宿泊も可能と思える。しかし、今も残っていたタイル張りの浴槽はそれにしても小さかった。痕跡はこの浴槽しか残っていないのだが、やっと実物を見られたと思うと感慨深いものがあった。これだけではとても当時の華やかさは伺い知れない。帰りに寄った、博物館の模型でやっと少し実感ができた。それと朽ち果てた金庫も残っていた。しかし、「点と記」の取材のために新田次郎がここを訪れたとき(1976年9月)は、廃業して3-4年ほど過ぎた時期でまだ焼却される前だったようだ。

「ヤマブドウの藪に覆われた石畳の道を行くと、そこに立山温泉の廃墟があった。松尾峠を越えて、ここに何度か来たことのある文蔵さんは、以前そこがどうなっていたか知っていた。本館と別館は残り、地元の湯治客を泊めていた二棟と大風呂はつぶれていた。
柴崎測量官等が泊まった行燈部屋を見ることは出来なかった。県の役人が泊まっていた別館も別館つき湯殿もほぼその形を残していた。本館はまさに倒壊寸前だった。中に入ってみると、障子、畳、枕、鍋、釜、食器類などそのままだった。電球の芯は切れていなかった。調理場の醤油の大瓶にはまだ三分の一ほど残っていた。戦後急速に人の足が減って、室堂へバスが通ずる同時に立山温泉は百年に近い歴史を閉じたのである。客室番号が二十番まであった。別館には松竹梅の三室があったらしいことが、調理場の黒板に掲げられた木札によって想像された。更に奥に進もうとすると、蝙蝠が数羽飛びだしてきた。危うくぶつかるところだった。警察派出所と書いた札が掲げられた部屋の壁に昭和の初めころの婦人雑誌から切り取ったらしい丸髷姿の美人画があり、破れた襖には昭和八年の京大の滝川教授事件を報じた新聞紙が貼ってあった。
外に出ると頭上を鷹が飛んでいた。庭には当時からあったと思われる植木が数本残っていた。アキノキリンソウの黄色い花とノギクの鮮やかな紫色が廃墟を廃墟らしくなく飾っていた。ヤマブドウの葉はやや赤みを帯びてはいたが、実はまだ色づいてはいなかった。」(「劔岳・点と記」越中劔岳をみながら/より引用)

この文章が書かれてから、かれこれ30年が過ぎようとしている。そして私の見た、立山温泉跡は浴槽と古びた金庫だけが残され、跡地には休憩所と綺麗な水洗トイレ、そして「立山の砂防ここから発す」と掘られた碑があった。この地に砂防工事の事務所もあったらしい。
私が、この「剣岳・点と記」を読んで以来、気になってしかたのなかった立山温泉は明治、昭和、そして平成と私の空想のなかでも姿をも変えていった。そして、何もかも歴史の中に埋没してしまうのだろう。おもしろい体験だった。
この碑の側から湯川に掛かる「天涯の橋」という立派な吊り橋を渡り、木道を進むと鰌池に辿る。この池は水面が緑の美しい池である。立山温泉の湯治客の遊び場となっていたらしく、放たれたフナ、ドジョウ、ニジマスが今も生息しているらしい。当時は船遊びも行われていたらしいが、いまはその形跡もなく自然に帰った静かな美しい池であった。上を見上げるとすぐ近くに松尾峠が見える。廃道になっていて通れないらしいが、何とか藪こぎで峠にたどり着きそうに思えた。ここも気になる道である。ガイドに聞いたら旧登山道が、復興する話も出ているという。しかし、抜ける道が今は林道ぐらいしか無いので難しいとのことらしい。
立山温泉跡の休憩所で昼食をとり、次の白岩砂防ダムに向かった。ここは主ダムの上に掛かった橋の上から見学した。このダムは1913(大正2)年に富山県が着工し、後に国の直轄事業になって完成し60年が過ぎた。昭和の砂防ダムで初めて登録有形文化財になった。あとは近くのインクラインを見学して最後の見学地である天涯の湯へと向かった。
この天涯の湯は、800メートル上流の泥谷から湧き出ている温泉をホースで引き込んで、工事現場で働く人のために作られた露天風呂だ。足湯を楽しませてもらったがかなり熱く、足は茹で蛸のように真っ赤になっていた。女湯も上に最近出来たというので見てきた。
これでこの日のカルデラでの見学会は終了。バスで立山カルデラ砂防博物館に戻り、館内を見学。博物館にはカルデラの模型で砂防工事の説明が展示されていた。トロッコも実物大の模型が置かれていて、座席に座るとほんとうに乗っているような疑似体験できる。この体験学習会では2時間トロッコに乗車して行くコースもあるが、このコースは例年人気で抽選になるそうだ。
まずは、第一目的の立山カルデラ内の立山温泉跡をこの目で見てこられよかった。それと、カルデラ内の砂防工事と災害との関係も理解できた。しかし立山にはまだまだ私がしらないことが多い。 今度は、立山博物館に立ち寄りもう少し立山信仰のことも知りたくなってきた。昨年も天候で計画がつぶれてしまった北方稜線から裏劔の紅葉と併せて見に行きたいと思っている。

立山温泉の歴史

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )

立山温泉の発見は1580年である。深見六郎右衛門が発見した。本格的に温泉地として整備されたのは1770年以降である。その効能ならびに立山信仰の拠点にもなったことから、江戸時代は非常に賑わった。
立山カルデラ内の非常に不安定な土地にあったため、1858年の山津波により温泉街は壊滅した。明治2年になって新たな源泉が発見され、温泉街が復興した。
昭和44年に発生した豪雨により温泉への道が被害を受けたこと、そして昭和45年に立山黒部アルペンルートのバス路線開通を受け、昭和48年に廃湯し、当地の源泉は立山山麓温泉へ供給されるようになった。

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