硫黄尾根山行 (1997.12.26〜1997.12.31)

メンバー:橋川氏、成田(執筆者)

1997/12/26(金) 小雨でなま暖かい

JR京都駅で21:30に待ち合わせ。小雨で少し気分が晴れない。待ち合わせの場所の烏丸口中央改札口に行く。今年の夏から新装した駅は去年より随分立派になり、場違いな場所にきたんじゃないかと少々戸惑い、加えて、場所を間違えていないかなとちょっと不安。中川氏、富樫氏、高嶋氏が見送りにきて頂く。感謝。橋川氏は高嶋氏の車に同乗し到着。ついでに高嶋氏に今まで履いていた草履を預けていた。差し入れも頂き、京都らしく生け花を背景に記念撮影。一番ホームへ向かう。駅ホーム上段の電光表示板には「ちくま81号」としか表示されていないため、「急行くろよん自由席」はどこかと駅事務所に尋ねに行くと戻った頃に、当該場所の表示が「くろよん自由席」に変更されていた。臨時列車はとかく間違いが多いものだ。その後、松田謙介氏と、JRで帰宅ついでに引き続き富樫氏が見送りにきて頂く。松田氏は職場復帰し元気そうだし、富樫氏の足も完治しつつあるようで、二人とも来年からまた山行ができそうな様子。

「ちくま」と「くろよん」の連結列車に乗車すると全般に空席が目立つ。「くろよん」自由席も1車両に8〜10人程度しかいない。雪不足でスキー客が少ないからだろうか。ここぞとばかりに、2人でボックス席2個所を占拠する。後は、たぶん名古屋駅からしか乗車してこないし、まあこんなに空席があれば大丈夫だろう、と勝手な解釈をする。差し入れで頂いたビールとリンゴ等で乾杯をし、いつしかウトウトと眠る。ふと見ると橋川氏は床にころがって寝ていた。

1997/12/27(土) 小雪で曇り⇒晴れ

JR信濃大町駅着。積雪なし。駅待合室は、登山客で8割方埋まっている。駅前に学校机を出し仮設相談室を設けた警察山岳救助隊の方に山行計画書を提出し、いまかいまかと待っていた運ちゃんのタクシーに乗り込む。どうやら客が少なく不景気らしい。 

七倉山荘着。マイナス5℃。積雪約5mmで昨年と同時期より少ない。山荘内でお茶を一杯頂きつつ登山状況を尋ねる。それによると硫黄尾根には2〜3日前に1パーテイー入山しただけとのこと。ひとまず高瀬ダムへ舗装道路をひたすら歩く。どうも最初は肩にズシリと荷物が重い。道は昨年より凍結しておらず比較的歩きやすいが、この長さは毎度のことながらウンザリするものだ。そのせいか、ハイペースとなり夏道コースタイムの約半分の時間で湯俣着。徐々に積雪が多くなりこの時点で約30cm。天候も晴れ間が見え始め良くなってくる。取水口で大休止し、やや水量少なめの川を少々危うい吊り橋を渡る。今年2月、橋川氏は、この吊り橋がよくわからず、ここを徒渉したとのこと。冷たかっただろうな。湯俣川沿いにある噴湯(浅くて熱くてとても入浴とはいかない)を見学してから、水俣川左岸を進み目線より上にある(まばら)古びた赤布を頼りに硫黄尾根に取りつく。基本的に橋川氏をトップに高さ腰まで程度の熊笹を薮こぎ。若干トレースらしきものが残っているだけだ。熊笹や潅木を邪魔にし、掴みながら高度をかせぐ。尾根上に出ると、春山のように暖かい。しばらく進み、早めに平坦な所(たぶん2,031m付近)でテントを張る。まあ、これからの行程、夜行明けの疲れを考えると妥当だろう。それに、予定泊地より先にいっているし。その夜、上空ではゴオーッゴオーッと風が強かったが、テン場は樹林帯ゆえほぼ無風に近く快適に眠りにつく。

1997/12/28 晴れ⇒曇(小雪混じり)

硫黄岳前衛峰群にさしかかる。P1はよくわからなかったが、ほぼ稜線どうしに通過模様。P3は潅木を支点に残置シュリンゲ3〜5つを利用し約20mを懸垂下降。もう先行パーテイーのトレースもほとんど残っておらず、真っ白な新雪を膝下ラッセルでP6まで行く。P6からはハイマツだらけの急な斜面を各自勝手に下降。身の丈までハイマツに埋まり、互いの位置がわからなくなるほど、深々と下りにくくてこずる。アイゼンで木肌を掻き毟り、時には両手で掴みながら下降したせいか、すっかりハイマツ樹液くさくなった頃、やっとこさ小次郎のコルに到着。

コルから硫黄岳までは膝上ときには胸まで迫るラッセルが続く。比較的雪がしまっており雪崩れの心配があまりないことが救いだ。主に橋川氏がトップ。ここで両者の体重差(約10kg)が歴然とする。それは、体重の重いぼくは橋川氏の通過後そのトレースを辿ると、何度となくときにトップ以上に足の付け根までもぐるのだ。橋川氏は快調に進むが、ぼくはシンドイのだ。おまけに、気温が高く湿雪のせいか、靴底にダンゴ状の雪固まりが付着し、なおさら足取りが重い。物理的に如何ともしがたく嘆いても前に進まないので、ダンゴ雪をピッケルでコンコン払いながら、できるだけ締まっていそうな箇所を足で探りソロリソロリと進む。それでも、はまる所はキチンとはまるのだ。これは、この山行の最後まで続いた。よって、天気も良いし行けるとこまで行こうという計画が怪しくなる。案の定、硫黄岳に到着すると15:30。槍ヶ岳の頂上と北鎌尾根独標、これからの硫黄尾根主峰群が望める。再び下るのかと考えるとしんどくなり、いい時間なので結局その付近の平坦な所(ハイマツの上)でテントを張る。

日が落ちると、星が透明にきらめき、寒さも増してきた。冬山にきたという感覚に近づいてきたようだ。夕飯を食べ、アイゼンで引っかけ破れたスッパツの修理に二人とも精を出す。なにげなくラジオを聴いているとなつかしの幼児向け歌番組を放送している。幼き頃の記憶を辿り、いつしか歌い手につられ汽車ポッポ(汽車、汽車シュポッシュポッ〜)などを低いトーンで合わせ歌い輪唱などもする。就寝するも、二人とも昼間に汗で濡れた靴下の冷たさであまり眠れず。橋川氏は、夜中、靴下を履き替えていた。

1997/12/29 晴れ

目覚めると、半分氷化したシェラフカバーがボンヤリと視界にとびこみ起床。テントの外に顔を出すと、天下無敵の雲一つない、どっか晴れ。ほのかに白々した彫の深い谷底から垂直に貫き朝焼けに立派に赤く染まる山々、水平に広がり吸い込まれそうな原色に近い濃紺色を放った空、凛とした空気。わけもわからず楽しくなる。昨年登った槍ヶ岳北鎌尾根の稜線を無意識に目で辿る。転じれば剣岳も顔を覗かせている。次は、あそこへ行こう。天気図によると、この好天は今日一日はもちそうだ。できれば、ダケカンバ平まで行こうと計画し出発。硫黄台地。ここは、文字どおり台地上で、どこでもテントが張れそうだ。雷鳥ルンゼまで、先ほどより少し易しいハイマツの下り。途中から潅木帯をラッセルし通過。

ワカンを装着し、南峰まで尾根上をまたラッセルすると、いよいよ核心部の一つ赤岳ジャンダルム群に突入。冬とはいえ大小様々な浮き石も多く注意必要。P1は湯俣側をトラバースし、P2は稜線通しに通過か、と思いきや立ち往生。橋川氏はややアクロバッチクな登摩を続行。ばくは、不注意にもATCを落としてしまう。どうやら残置シュリンゲにつられてしまったようだ。すると、下方湯俣側からP2を巻いてくる2人パーテイーに「こっちだよ」とルートを教えてもらい、そこまでクライムダウン。確かに記録では「P2は湯俣側をトラバース」と記してあったからだ。P3で先ほどの2人に出会う。彼らは、「チーム84」という東京都の社会人クラブに所属し、年は20代で、ぼくらより1日遅く入山とのこと。う〜ん、足取りが速いな〜。それからは、彼らのあまり迷わない確実なルートフアインデイングに助けられる。P3を通過しP4は残置シュリンゲで約20mの懸垂下降。P7から、20m.5m.20mの3回の懸垂下降だが、ここでヒヤリとする。それは、ぼくが下降するとき、約2m程度、急に体重を預けたせいか支点にしていた2つのハーケンのうち1つが岩もろともガラガラとはずれたのだ。一瞬、血が逆流する。気を取り直し、登り返しはずれたハーケンをもう一度打ち直すも、岩自体がもろく苦労する。P8(赤岳・2,424m)は、千丈沢側をトラバースし、中山沢のコルへ到着。このコルは3張りのテントが張れそうだ。岩稜をはさんでチーム84のテントもある。ダケカンバ平までは少々時間切れなので本日はここまでとしようか。予定通りうまくいかないものだ。だからこそ、面白い一面もあるのだろう。コルの風下側を切り崩しテントを張る。どうやら、明日は天気下り坂の模様。スパッツも破れ目が目立ってきた。橋川氏、少し鼻風邪気味。

1997/12/30 曇⇔風⇔雪

朝、天気図を作成すると、本州南岸に低気圧が接近しており天気は良くなることはなさそうだ。外は吹雪に近い。しかし、午前中は幾分かましと判断し、昼前に核心部の赤岳主峰群を抜けようと出発。チーム84の彼らは、テントの中におり行動か停滞か決めあぐねていた。橋川氏がトップで、左ルンゼをつめる。取り付きはやや難しく、ウンセと腕力がいる箇所だ。見上げると、稜線の所々で小規模の雪煙・雪崩が発生し、眼鏡に雪がどこからともなく入り込み曇る始末で使い物にならない。・峰までは急登をときには胸まであるラッセルであえぐ。・峰は千丈沢側をトラバース。・・・・・峰となにげなく通過し、ダケカンバ平に到着しホッとする。

そこから、尾根伝いは雪面がクラストし、トップの橋川氏はハ、イマツ混じりの雪壁が約5mのアイスバーンと化した箇所を、何度もピッケルを振るいながらの登りに苦労する。ここでチーム84の彼らに追いつかれる。またワカンを装着しラッセルが続く。風もより強くなってきた。吹雪で視界の悪いノッペリした稜線上に出ると、いつのまにか西鎌尾根の銃走路に出た様子。チーム84の彼らは、槍ヶ岳は登らず、中崎尾根経由で新穂高温泉へ下山ということで、ここ縦走路でテント泊とのこと。ばくらは、一路、肩の小屋へ。縦走路は風で雪が飛ばされ締まっており楽ちんだろうと考えるも、やがて、あてがはずれたことに気付く。トレースは不明瞭で、吹きだまりで所々ラッセルを強いられ、今までの疲れも手伝いなかなか距離を稼げない。湿った雪が横殴りに吹き付け、時間が経過するのにつれピッケル、ザック等に雪が幾層にも氷化付着し、じわじわと全体が重くなる。まつげも半分凍り、目もしっかりと開けていられない。千丈乗越からは急坂になり暗闇も迫ってくる。

17:20に冬期肩の小屋に到着。1m四方の扉をこじ開け小屋に入る。いや〜、別世界。小屋内の気温、5℃。年末ということもあり、案の定、混んでいる。うまい具合に2人分の空き場所を見つけ、とりあえず飲み物を各自2杯飲む。去年も、ここでお茶を頂いたことを思い出す。明日は下山ということで2食分/人のペニカンでシチューを作る。橋川氏が半分ほど残す。そんなに不味くはないのだがら、疲れか、風邪か、軽い高山病だろうか。少し心配だが、小屋内で十分休息できることにちょっと安心する。ぼくは、疲れてはいるが、相変わらず食欲があり、先ほどの残り物も食べる。その間、小屋内の人々は、着々と眠りにつき、ぼくらだけがコソコソと動き、ヒソヒソと話し、モソモソと飯を食い食器の音にも気を使った。まるでダンゴ虫になったようだ。小屋というものは、快適な分、人も集まり周辺に気を使うものだ。甲斐駒パーテイーに無線通信することも億劫になり(すいません)我々も早々に眠る。

1997/12/31 吹雪⇒晴れ

シュラフカバーが凍ることもなく熟睡の後目覚める。すると、隣人に「京都雪稜クラブの人ですか?」と声をかけられる。全然見覚えの無い人だ。橋川氏も知らないらしい。度忘れだったら申し訳ないな〜と思いつつ、尋ねると、名をツヅキ氏といい、当会の羽澄氏の大学W.V部の先輩とのこと。昨夜のヒソヒソ話で羽澄氏の名前が含まれていたことから察したとのこと。う〜ん、結構、山の世界は狭いな〜。小屋内で下手なことを話するものではない。当初2人パーテイーだったが相手の都合が悪くなり、単独で槍ヶ岳へピストンに来て、今日下山とのこと。さりげなく勧誘をし別れる。 

外は吹雪で、マイナス15℃、風速20〜30m/s。エイヤッと空身のままバイル1つを持ち槍ヶ岳頂上へ。短期決戦だ。下から吹雪が吹き上げる中、アイスバーンと化した斜面をアイゼンとバイルを効かせ、サクサクッと登る。なかなかスリルがある。ハシゴを慎重に伝い頂上へ着くと誰もおらず、祠も祠氷と化けている。視界もあまり良くなく、かろうじて北鎌尾根独標が見えるくらいだ。危難撮影後、サッサと下山。往復30分であった。時間が許せば、西穂まで縦走と滝谷の登りをしたいところだがそうもいかず仕方がない。次の楽しみにとっておこう。

小屋内で一息後、雪が締まっており、雪崩の心配が無いだろうとの予測のもと飛騨沢を一気に駆け下りる。時に腰まで埋まるも下りの気楽さからか、さほど苦にはならない。それよりも、体は無料の温泉につかることで忙しいようだ。他の人は大喰岳西尾根、もしくは中崎尾根経由のようだ。飛騨沢は、ぼくらだけ。宝の木につくころは、空も半分真っ青に晴れ上がってきた。毎度のことながら、下山中に天気が回復してきて少々悔しい。入山者も多いようだ。しかし、山頂付近は強風のため雪煙が舞っている。 

新穂高温泉に到着後、待望の無料の温泉につかる。無料というのが有り難い。売店のオバサンによると、当温泉は年末年始は通常営業時間(〜16:00)より早めに閉店とのこと。バスでJR高山駅へ。ここでちょとした誤算と見当違いが生じた。到着20分前に当駅から大阪行き急行が発車したこと(∵急行券は安い!)、冬の特急増発便は全て指定席であることだ。そうとも知らず(実際はあまり良く見なかったのだが)、2人とも食事やお土産買いでノンビリ過ごしすぎたようであった。互いに、余分な高い特急指定席券を購入したり、時間をずらしたりした。車両はガラ空きというのに…。時刻表は良く見ましょう。ともあれ、ケガも無く、計画より早く無事下山できたから、良しとしよう。 

まとめ

暖冬で冬にしては比較的天気に恵まれた中で… 
雪が少ないといえども、入山者が少なく、トレースも期待できないためワカンは必要。
それに伴う体力の増強、ラッセルトレーニングはやっておいたほうがよい。
岩峰群では確実なルートフアインデイングが求められる。
岩は、もろいし、浮き石も多く下手に岩を掴むと崩れる可能性が高い。

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