青春の詩 7(中川 ピン)

序説

 今年の冬も、暖冬傾向と予想されている。38豪雪、56豪雪、さんぱち豪雪・ごうろく豪雪と言われた、伝説のような大雪が降ることはないのだろうか。地球温暖化と言うが、これほどまでに人間の生活基準が上がることで、気象に及ぼす影響は大きいのだろうか。  今年は、あまり登っていなかった。大きなものは、夏の丸東の「雨の日もパラダイス」くらいだった。しかし、後半に女神は微笑んだ。10月の新雪の立山、11月の初めての 山スキーで、悪天候の中を剣御前より滑降できたことは、新たな感動であった。雪が降ってほしいものである。過去の足跡、辛いことを忘れるくらい、山も街も白い雪で覆ってほしいと、最近思っている。

第1章 「消えゆく月に」 三和 裕佶 追悼集

 北海道の三和さん。亡くなられる前から、雑誌等の記録で北海道に凄いおじさんのクライマーがおられることは知っていた。この本は、数々の写真と追悼文と三和さんの記録で飾られている。読み終えた後、人と人のつながり素晴らしさ、山に向う姿勢等が身近に伝わってきた。「山を登り続け、遊びまわり大勢の人達と出会ったことが、人生と仕事に大いにプラスになっている」と書かれていたのが、印象的であった。

第2章 初滑降 パウダー立山

 11月の最終の週末、立山は完全な冬の装いであった。頬と手指を刺す寒気、全面氷結したみくりが池。山々を包む白いガス。朝からケーブル駅の下でゴロゴロして、やっと着いたのであった。昼まで降雪のために通行止めになっていただけあって、一面雪だらけ。広大な雪面は、荒らされていない。
 今回は、山スキーのデビュー第一弾である。それも、パウダーで剣御前からの滑降である。ゲレンデスキーは、ある程度に格好悪くない程度に滑れることが出来るが、整地していない雪の斜面を滑るのは初めて…。不安の材料は、シールでの登行、パウダーの滑降、転倒した時の恐怖等。しかし、「アカンかったら、スキーを外して歩いたらええやん」という考えに落着いて、不安と恐怖を消去していった。
 シール登行を喘ぎ、気合で前進と繰り返しながら到着した、剣御前はブリザードの中であった。風下の小屋の陰にかくれても、どんどんと体温を奪われていく。行動食を食べて滑降開始。出だしの斜面はカチカチに氷化しているので、横滑りで通過していく。転倒しないように、慎重に。周囲はガスで真っ白で、雪面との区別がつかないくらいで、ホワイトアウト状態の中を新雪のパウダーか感覚を頼りに、滑って行く。自分の位置、周りの地形が判らず、白いベールの中を滑っているのでクルマ酔いのように、少し変な感覚と気分になってくる。高度を下げるにつれて、ガスはなくなりテン場と川が見えてきた。山形さん、浅野さん、西村さんの後を必死でついていくが甘くはない、追い付かない…。登り2時間、滑降は約15分、もっと長い距離・時間を滑っていたかった。(04年11月)

第3章 景観遮断

 避難小屋の浴室からは、ドアを開け放すと東山三十六峰のひとつ稲荷山を観ることが出来た。休日の朝、陽が昇り出し低山である稲荷山が赤や橙色に変化していくのを、湯につかりながら眺めるのが最高であった。しかし、道路を挟んだところに大きな建物が建った、今は楽しみだった最高の眺めは、遮断された。
 残された良き眺めは、ベランダから見える桃山城。夜はライトアップされるので、心落着かせて安堵を与えてくれている。

第4章 手紙文例集

前略 如何御過ごしですか。
暑い夏も、やっと終わった感じですね。
今年は、いつものように「秋の気配」の風を感じることなく初冬を迎える感じですね。
紅葉が、さまざまな色に変わると、市内はバス・クルマで大渋滞…。
こういう時は、やはり散歩ですね。
ゆっくり歩くことにより、見過ごしていた小さな風景も感じることが出来ます。
風が冷たくなり少し紅葉が落ちたころに、散歩に行きましょう。
新しい初冬を感じてみて下さい。
風邪ひかんようにして下さい。
草々

第5章 憧れの文登研へ

 岳連から推薦が決まり、憧れの文登研へ。「トラの穴」と言われるくらい厳しいらしい。京都を発つ前に、「痩せて帰ってきますよ」と驚かされた。研修期間は5日間、どれほどの試練が待っているのだろうか。
 研修は、朝の早くから晩の10時位まで続く。酒を呑んでいる暇や、愚痴をこぼしている暇もない。講師の先生からは、厳しく指導される。事故者の吊り上げ救助、事故者を背負っての懸垂下降、重たい砂の詰まったマネキンを梱包しての搬出訓練と、実践のように訓練は続く。研修所に帰って食事の後は、討論会、班別の反省会、体育館の人工壁での復習訓練…。今まで受けた訓練の中で、一番辛かったのが本音である。ある程度の自信はあったが、細かいところでミスがでる。しっかり訓練していない証拠である。しかし、ひとつだけ誉めて頂いたのは、救急法。これは、私の十八番である。
 朝から晩まで、訓練尽くしの5日間は過ぎていった。最終日の終了式で光栄にも私は、代表で修了書を頂くことができた。修了書を頂き席に戻る途中で、担当して頂いた講師の先生二人が、ニャリと歯を見せて笑ってくれたのが非常に嬉しかった。(04年11月)

おわりに

 私は、あと少しで40歳になる。屏風を登り始めた頃に橋川さんと約束した、「40歳までに、パチンコ(厳冬季の屏風からの槍ケ岳への継続登攀)を成功させる」と言う期限までの、残り時間は少ない。最近、登りたい山が多いが、なかなか調整がつかない。下界のしがらみとでも、言うのだろうか
 しかし、私は登り続ける。強くなるために。そして、山と言う世界で自分を表現するために。

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