15 知床の夜(北海道)

北海道、知床羅臼。

漁船の上から見た羅臼岳は、尾ヒレの様なガスをまとっていた。

「山頂の周りがあんな感じに見えていたら、猛烈な風が吹いてんで」一緒に船に乗っていた先輩は、山頂から流れる白いガスを指して言った。

今は昔。僕が20代を迎える前のこと。

夜。羅臼町中心部より数キロほど知床峠に向かって車道を進んだところにある露天風呂、「熊の湯」の近くにテントを張った。ここが、除雪の終点であり、ここから反対側の宇登呂まで、知床峠を挟んだ車道25キロ区間は冬季未除雪である。ちょうど一月になる北海道の自転車旅行を経た、3月下旬のこと。

熊の湯は男女別になった無料の露天風呂で、お湯は非常に熱かった。しかし、外は身を切るような寒さ。入るも地獄、入らぬも地獄。地獄と地獄を行き来しながらも、2時間近く湯船でのんびりしていた。

「冒険は旅の一部ではあるけれど、冒険をするために旅をしている訳じゃない。冒険は、旅をしているうちに乗り越えなければいけない壁を越えるため、必然的に起こってくるものなんだ」

僕が「冒険よりは旅をしたい」と言った時の、先輩の答えだった。それに対して僕がどう応えたかは覚えていない。ただ、言葉とは裏腹に、冒険を積極的に求める自分がいた。

風呂から上がると、漁船にのせてくれた漁師さんから頂いた魚をさばいて食べた。イカの内液(スミ?)をダシにして、ホテイウオ(通称ゴッコ)の切り身を入れたものは、なんとも新鮮で不可思議な味と触感だった。明日以降の行程を思うと、不安で食が進まなかった。僕らは無事、ウトロへと抜けられるだろうか。

翌日。天候が安定しそうなので、知床峠へ突入することにした。

強さが欲しかった。自分を守れ、誰かを守れる強さを。自分の理想を追い求められる強さを。

困難を求めていた。乗り越えた分だけ強くなれる困難を。

白い谷間に朝の光が差し込み、白いガスを押し上げていた。僕らは、雪の中を自転車を押し続けた。

道路標識は雪に埋もれ、最上部の末端だけがかろうじて雪面から出ていた。しかし、この年は雪が少ないのか、春が近付いているのか、ワカンを履いた足は膝より上まで沈む事はなかった。

 

日も昇り、もう朝とは言えなくなった頃、一本の大きな橋が現れた。

赤色の欄干からは今にも雪がはみ出さんとしており、まっすぐと続くその橋は空へと続いていた。Into the High Air. 重い足は意思とは無関係に動き続け、僕らは黙々と自転車を押し続けた。雪はホイールに絡みつき、タイヤは雪の中へと沈もうとし続けた。

所々、車道のヘアピンカーブをショートカットするように急坂を登った。

最後のショートカットを終えると、遠くに峠が見えた。峠を吹き向ける風の音も聞こえた。ここまで来ると巨大な羅臼岳が目の前に居座って見えた。心なしか親近感も抱いた。ここからならすぐにでも登れてしまいそうな感じも受けた。

3本目のスニッカーズをかじる頃には、峠も目前だったが、今での平坦な雪面から一転して、斜面のトラバースが続いた。車道を忠実に進む以上仕方のない事だった。滑落したところでたいした怪我はしなさそうだったが、落ちるわけにはいかなかった。危険なところでは自転車とザックを分けて往復して運ぶ事にした。

車道のトラバースは、所々沢筋を横切っていた。雪崩が怖かったが、スコップ一本の我々に出来るのは、ただ祈る事だけだった。神よ。我らの行く先にご加護を。轍の途絶えざらんことを。

気持ちの悪い箇所を、ひとつ、ふたつ、と越えると、青色の道路標識と看板が現れた。

「網走  92km

宇登呂 16km」   「知床峠 標高738m」

峠に着いて最初に目にしたのは、猛然と雪を吹き上げる、除雪車だった。

アスファルトの路面が見えていた。ウトロ側は除雪されていた。烈風が吹き、細かな雪が路面を筋の様に走っていた。背の遥か向こうには国後島が見え、目の前にはオホーツク海が広がっていた。

峠は、寒かった。 

路面が出ていれば当然自転車は有利であった。ウトロ側のゲートをくぐった時、僕らは歌い踊った。日の暮れる前にはウトロのセイコーマートに着き、暖房と缶コーヒーで体を温めた。反対側の羅臼と打って変わって、ウトロはホテルの立ち並ぶ観光地だった。僕は、海鳥飛び交う羅臼の漁港を思い出していた。

知床峠越えがあっという間に終わり、夜はなかなか寝付けなかった。心がまだ雪の中を彷徨っていた。と同時に、前日まで不安で押し潰されそうだった心が弾けていた。来年はもっと北に行こう。そう想った。今は昔のこと。


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