京都雪稜クラブ - 若さ溢れるオールラウンドな活動◆京都岳連加入◆
2002年 7月22日〜8月2日(7月27日登頂)
私が山を登り始めたのは約5年前の7月23日、会社の友人3名と一人息子(穂高君)を連れて白馬岳から五竜岳への縦走したのが私37才、息子9才(小学校3年)の夏でした。最初の目標は穂高の10才の記念に3000M峰を21座完登すること。9才の秋に立山を登っていたのであと20座を7月12日の富士山から10月17日の塩見岳まで約3ケ月で登り切りました。最初は「無理やろ」と思ってた、最後は「やりたい」と思ってた。私が用意していた「3000M峰21座全山登頂」記念トロフィ−を塩見岳山頂で手渡した時、息子はそう言ってました。幼いなりに何かを感じとったようです。
5年生の時の夏休みは1ケ月間山を登りキャンプしながら北海道を一周しました。6年生の時小学校最後の思い出にとキリマンジャロの計画を立てましたが、同時多発テロ、アフガン戦争で第2種危険地域に指定され旅行を断念し、ヨ−ロッパなら危険は少ないと夏の目標に切り替えたのです。しかし、何度か雪山への挑戦はしてみましたが「技術がないと先へは進めない」と思うようになり雪稜クラブにお世話になることになりました。
心が素直で?真面目で?じぇんとるまん?こんな私はメキメキと上達し?努力と天性の実力で?モンブランへ登る決意だけをしたのです。言ってはみたものの、英語はおろか日本語もままならず、小学生の息子には青二才と呼ばれる始末。当時41才、未だに大人になるキッカケすら掴めず、試行錯誤も最近では打つ手なし。このような状態を「途方に暮れる」と言うらしいが、バカはここからが強い。本人はいたってご機嫌ご陽気であり、口々に唯一の取り柄だと賞賛されている。こんな私が一人息子を連れてモンブランへ登るというのだからお目出たい、取り柄とは素敵な物だと納得するばかりだ。
2002年7月6日高所順応のため富士山へ登り山頂付近でテント泊、とくに頭痛もなく順調だ。翌週13日にも富士山へ登り、上り2時間52分下り51分で山頂で4分休憩、ト−タル3時間47分で山頂を往復できた。これまた順調に順応出来ているようだ。
穂高も連れていく予定であったが2度ともラグビ−の試合でトレ−ニング出来ないままで出発する事になった。子供は高所順応も早いが影響も受けやすい。慎重に判断出来ないと危険であり不安は増すばかりだ。
関空(10時40分発)→(パリ経由12時間)→ジュネ−ヴ(18時40分着 約1時間) HIS往復一人 \156,000
・空港から電車に乗り一駅でジュネ−ヴ到着(約5分)
・改札が無く料金を支払わず駅を出た。?
ホテルドレイク泊(朝食付き、ツインで1部屋 \10,200)レマン湖近く
・テレビ(ドラゴンボ−ル、トム&ジェリ−等)
ジュネ−ヴバスタ−ル(8時30分発)→シャモニ(10時5分着)
・バス(1時間35分、途中で国境を越える為パスポ−ト携帯要)大人1人(片道29ユ−ロ)
・日本語、韓国語、英語、フランス語を話すガイドが添乗
シャモニ → ロジェ−ルキャンプ場(徒歩20分)
・2人1泊(13.2ユ−ロ)
・水洗トイレ、無料温水シャワ−、炊事場、レストラン、コインランドリ−(管理棟でコインを購入)、洗濯(2.5ユ−ロ)乾燥(4ユ−ロ)
・キャンプサイト(アジア人多く日本人も何組か滞在)
テントからモンブラン、針峰群が見える。
観光案内所(日本語デスク有り)情報収集
・天気 24,25日 曇り一時雨
26〜28日 晴れ
・スネルスポ−ツ
ガスカ−トリッジ購入
・ス−パ−で食料の購入
日本語のメニュ−がある中華料理店で昼食
夕食はキャンプ場で自炊
関空で買ったゲ−ム(電車でGO)で穂高君ご機嫌に遊ぶ
キャンプ場ガレ−ジに荷物を預け高所順応に出かける。キャンプ場 → ロ−プ−ウェイ乗り場(徒歩30分)
・エギュ−・ドゥ・ミディまで (往復33ユ−ロ.Jr28.1ユ−ロ)
・3800Mまで一気に上がるため途中駅で少し休憩をとった。
・純白の谷出口からナイフリッジを下った雪原でキャンプを張る(3600M付近)
アンザイレンし慎重に下る。(10張り程度有り)
少し動くと心臓がバクバクする。日本より北の国だから空気が薄い。
(同じ高度なら極点へ近づく方が空気が薄いらしい。)
富士山で慣れたと思っていた高度だけに不安になる。
太陽が陰るとかなり寒い。
ここからのモンブランは手が届きそうだが、私たちを祝福してくれるだろうか。真っ白で美しい山だけど不気味に映った。
キャンプ場へ戻りモンブラン登山準備。
・翌日早朝出発の為、不要な荷物を管理棟のガレ−ジに預ける。
(無料でガレ−ジに入れてくれる。)
キャンプ場 → 公園付近バス乗り場(徒歩20分)
シャモニバス(7時発) → レズ−シュ(バス30分)
・キャンプ場でもらうゲストカ−ドで無料
レズ−シュ(7時30分始発 → ベルビュ−(ロ−プ−ウェイ10分)
・往復大人(11.4ユ−ロ)Jr(9.2ユ−ロ)
ベルビュ−(8時40分発 → ニ−デ−グル9時着(登山電車20分)
・往復大人(10.4ユ−ロ)Jr(9.4ユ−ロ)
2372M地点
キリマンジャロが駄目になったとき、穂高には内緒でモンブラン行きを決めていた。
半年がたち、とうとう親子二人きりでこんな所まで来てしまった。テレビで一昔前にやっていた(エスパ−伊藤の無謀な挑戦)というのを思い出す。登山電車の窓からはお花畑が広がり地面からマ−モットが顔を出す。最初の上り坂はお花畑の散歩道だ。ゆっくり、ゆっくり、と言い聞かせて登っていく。沢山の山羊たちが出迎えてくれる。テ−トル−ス小屋(3167M)まで約2時間。(小屋へは寄らず近道を取る)
ここからは岩稜帯をひたすら登るとグ−テ小屋だ。登りだしてすぐの所に有名な大クロワ−ルのトラバ−スが待っていた。少し様子を見ていると2.3分以内に必ず大きな落石が有る。あたればひとたまりもないだろう。単独行のフランス人が私に話しかけて来て、全く理解できず意味不明のまま「ノ−」と答える。不機嫌そうな顔でもう一度身振り手振りで私に説明をしている。たぶんこうだ、「私が向こうへ渡るまで落石がないか見ていてほしい。落石があれば大声で叫んでほしい。君が渡るときは私が見ているから。」一言も理解できないがたぶんそうだ。今度はご機嫌に「OK、OK」と繰り返し答えた。意志の疎通があったのかどうかは未だに不明なまま、フランス人と島親子は無事に向こう岸へたどり着いた。
今シ−ズンは岩場に全く雪が無く、ゆっくりだが快調に3時間かけてグ−テ小屋(3863M)へたどり着いた。小屋のすぐ上にテント場があり30張りほどのテントが風になびいていた。
快晴の中、見事な雲海とボス山稜が真っ白に光っている。明日はアタックだ。19時頃夕食を取ったが昼間のように明るく、21時頃やっと陽が沈み消灯。
1時30分 起床、朝食準備
2時30分 穂高起床(かなりの睡眠不足)
朝食
3時50分 アタック開始
3時30分の出発予定が準備に手間取り出遅れた。月明かりの中、ボス山稜に光の列が見える。山小屋から登ってくる明かりは2.3パ−ティ−しか無く、ほとんど最後尾に近く出遅れた事に焦りを感じる。ジグザグに1時間程度登り少しずつ遅いパ−ティ−に追いつき始めた。体調を崩したのか、血を吐いたあとや、抱えられ下山してくる者、その場に倒れ込んでいる者等。僅かではあるが調子の悪い者は登頂を阻まれているようだ。
2時間がたちド−ム・ドゥ・グ−テ(4304M)付近にたどり着いた頃日の出となる。真っ赤な朝焼けだ。ここから先は稜線でまともに風を受ける。風に舞う雪で目を開けられない、「お父さん手の感覚がない。寒い、寒い。」と繰り返す。オ−バ−手袋とダウンジャケットを取り出し着せてやるが、体脂肪の少ない穂高にはそれでも寒いようだ。「止めようか」と何度も問いかけるが首を縦には振らない、子供の限界は親だからといって判断出来るものではなく寒い以外には高山病の症状もなく穂高自身の判断に任せた。
ヴァロ小屋(4362M)を過ぎたあたりからは益々風は強くかき氷状で腐った雪が左前方より容赦なく顔をたたく、登るに連れ今度は粉雪が顔面に吹き付ける。いよいよ最後の上りだ。
稜線は1M程度のナイフリッジになり緊張が走る。すれ違いはどちらかが斜面に一歩踏みだし通過を待つ。フランス人はあまり譲ってはくれない。何度と無くすれ違いを繰り返し穏やかな丸い広場に出た。少し先へ進んでみる、ここより高い所はないようだ。山頂だ。
穂高はかなり眠そうだ。かなり寒かったようだ。「頑張ったな」握手で健闘をたたえ合った。「ありがとう」そう答えてくれた。熱い物がこみ上げてくる。
8時50分登頂。雲一つない快晴だ。日が昇りきりやっと暖かくなってきた。
30分程度休憩し、フランス人と写真を取り合いアルプスの最高峰からの展望を楽しんだ。
一昨日モンブランを見上げていたエギュ−・ドゥ・ミディ、有名なグランドジョラス北壁、モンテロ−ザ、ドリュ針峰群、遠くにはマッタ−ホルンとヨ−ロッパアルプスを独り占めにしたような大展望だ。
穂高に「なんで山行くの」と尋ねると「景色がきれいやから」と答える。私たち親子の登山スタイルだ。あれから1年が経ち「久しぶりに山へ行きたい」「キリマンジャロは行かへんの」と誘ってくれる。部活が忙しくてなかなか行けないくせに。
モンブランは手頃な山である。しかし油断すれば手痛い目に遭うだろう。
私たちが登頂した翌日、滑落で1名が命を落としたそうだ。気象条件もそうだ。初日の岩稜が雪と氷に覆われている年は、それなりの技術が必要だ。テント山行なら体力もそれなりに要るだろう。同じ高度でも富士山よりしんどく感じる。富士山以上の高所順応は現地でしか出来ないのなら日程的な余裕も必要だろう。いずれにせよそれなりの準備は必要だ。
重たかったがテントを担いでいってよかった。グ−テ小屋のテント場で雲海に沈む夕日は2日目もすばらしく、登頂の充実感と満足感に酔いしれていた。
グ−テ小屋で大量のビ−ルを買い込んで呑んでいたためか、夕焼けのオレンジは尚いっそう輝いて見えた。
2003年6月17日 島 記